街を描く映画

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070219/1171860573について、張江さんからご指摘いただいたように*1、「もはや戦後ではない」が1955年ですから、1958年は「高度経済成長前夜」というよりは高度経済成長初期といった方が妥当ですね。それから、傷痍軍人は私の子どもの頃(1970年前後)にもまだいて、上野とか成田山門前で見たことはあるけれど、傷痍軍人が消えたのが何時頃だったのかは定かではない。
さて、緒方明の『いつか読書する日

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は街を描く映画だ。勿論、中年の男女が恋愛をする映画、30年以上前に分かれたカップルが縒りを戻す映画でもあるのだが。ヒロインの田中裕子の高校時代の作文が朗読され、川沿いの山の斜面に密集した早朝の住宅街がロングで映し出される。その街の中で黙々と牛乳を配達する田中裕子。彼女の牛乳配達は住民にとって目覚まし時計としても機能しているようであり、既に街そのものの一部になっているかのよう。この導入部から画面に引き込まれてしまう。街の撮り方がすごく丁寧なのだが、ロケが行われた長崎は監督の故郷だということを後に知った*2。この街に住む田中裕子は昼間は坂道を下った地区にあるスーパーのレジを打ち、早朝は住宅街に牛乳を配る。彼女と高校時代に付き合っていた岸部一徳は日々路面電車で市役所の福祉課に通勤する。また、2人の恋愛を見届けるのは、同じ街に住み、痴呆症の英文学者である夫を抱える女流作家(渡辺美佐子)。岸部一徳には末期癌の妻(仁科亜希子)がおり、彼女は自分の死後を託すように、田中裕子と岸部一徳が縒りを戻すことを願っている。こうして、反復としての日常が少しずつ解れていく過程、〈忍ぶ恋〉が顕在化していく過程が描かれ、恋が成就して目出度くベッド・インとなったその後朝、悲劇的な出来事が起こり、その悲劇を代価として、再度反復としての日常が恢復される。そのような映画。
この映画における地理的な対立;


斜面の住宅地
平地(職場の領域)
郊外の公営住宅


母親にネグレクトされた郊外の子どもに岸部一徳は福祉課の職員として関わる。その子どもが斜面の住宅地に侵入することによって上述の〈悲劇〉は起こる。

*1:http://harie.txt-nifty.com/annex/2007/02/post_6497.html

*2:とはいっても、これは長崎の映画として提示されているのではない。長崎を知っている人が見れば一目で長崎だとわかるのだろうけど、一般に長崎が語られるときにステレオタイプ的に付随する原爆だとか和蘭貿易だとかは全く言及されない。勿論、長崎カステラも。