信じるという動詞

少し前の話ではあるが、所謂「ニセ科学」問題に絡んで、「科学」と「宗教」についての議論があった;


http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20070106/1168076907
http://d.hatena.ne.jp/rna/20070108/p1
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20070108#p1


これらの議論とは直接は関係ないのだが、前々から思っていたことを言葉にしようと思う。〈信じる(believe)〉という動詞の奇妙奇天烈さ。こういうことは哲学ではとっくに議論されているのだろうけど、生憎分析哲学には疎いので、御存知の方は御教示されたい。〈信じる〉という動詞は如何にして使用されるのか。これも充分に変な文だとは思うが、


This is a pen.


と言ってみる。これはペンがあるという知覚された事実をそのまんま述べている文だといえる。では、


I believe that this is a pen.


だとどうなるのか。私はこれがペンであることを信じる。”I believe that”が加わることによって、”This is a pen.”という一点の曇りなき明証的な知覚=事実に暗雲が垂れ籠めてしまう。”I believe that”は余計であるだけでなく、さらに”I don’t believe”を喚起する。私はbelieveとdon’t believeという可能性からbelieveを選択した。勿論、一瞥しただけで事実が確定するとは限らない。


 これは家ですか、それとも車ですか。


という文。これはかつて東京外国語大学が作った外国人向けの日本語の教科書に実際に載っていた例文である*1。この文は使わないで、This is a pen.で押し通すけれど、論理的或いは実証的に、つまり合理的な根拠をもって私がこれはペンであると判断する場合、I beieveというだろうか。その場合、This is a pen.という裸の文が発話されるということが考えられる(対応説!)。或いは、


I conclude that this is a pen.


というふうに、結論付けるという動詞を使うのではないか。対象が明証的に私に現前しているとき、合理的な根拠をもって判断しているとき、believeという動詞を使う必要はない。それどころか、believeを使うことによって、私の判断の根拠のなさ或いはその薄弱さが露呈されてしまいかねないのだ。そのbelieveの機能がよりはっきり発揮されるのは、例えば、


This is a pen, I believe.


という場合ではないか。
宗教に話を移せば、〈信〉が強調される場合、同時に〈不信〉が喚起される。〈信〉と〈不信〉とを分かつのは合理的な根拠ではない。或いは、合理的なことを信じるのは信じるに値しないということになる。或いは、合理的な根拠に、さらには素朴な直観に逆らって、信じなければならない。
宗教、特にアブラハムに源を持つ宗教はこのような不条理でしかあり得ない〈信〉を要請する。但し、日本の神道ではそのような決断(判断)はそもそも問題にならない。そこで要請されるのは神を信じることではなく、敬神であるから。

*1:実は霊柩車という日本文化を外国人に理解させようという深い意図があったのかも知れない。