オントロギー/ドラマトゥルギー(岩田慶治)

承前*1

いま 宗教をどうとらえるか

いま 宗教をどうとらえるか

岩田慶治先生の1990年の講演「存在の深みへ−−人類学から−−」(宗教社会学研究会編『いま 宗教をどうとらえるか』、pp.7-22)から少し抜き書き。
オントロギー」と「ドラマトゥルギー」ということに関して、「存在論というか、存在の意味を求めるという学問と、ドラマの展開を追っていって、そこで人生、あるいは歴史に対して有用なモデルを提供するというような傾向をもつ学問との二つがあるように思うんですね」(p.13)。
また、


それで、皆さまご承知の『正法眼蔵』という道元の本を見ますと、あれは徹頭徹尾、悟りということを主題としていて、99パーセントか100パーセントか知りませんけれども、迷悟ということをめぐって考え考えしているわけですね。徹底的にオントロギー派である。ところがどうでしょうか。浄土教の教典その他を読んでみますと、ドラマトゥルギーの手法にしたがっている−−例えば『大無量寿経』でも法蔵菩薩がどこにいるのかわからない。地図上に所在を尋ねたって仕方ないわけなんですけれども、その人がどういう願を立ててわれわれを救ってくださっているとか、極楽を見せてくれたとか言いましても、それは要するにドラマではあるけれども、オントロギーの手法ではない。存在をそれが主張できないというんじゃないんですけれども、どちらかというとドラマの展開のほうにアクセントがかかっているかと思うんですね。
ですから、ドラマトゥルギーのほうを主張すれば信じるというか「信」を言わなければならなくなる。道元の『正法眼蔵』に「信じる」という言葉がないことはないにしても、「見る」ということですんでしまう。そういう違い、方法の違いを考えてしまうんですね。どなたか書いていらっしゃったけれども、『大無量寿経』というのは、砂漠のなかをキャラバンが旅行して歩くそのキャラバンのリーダーが、自分のメンバーたちを事故もなく安全にみちびいて最後に目的地に到達する。そういうリーダーの心得みたいなことが書いてあるとおっしゃった人がいますけれども、なかなかうまく言っているなと私は思うのです。(pp.14-15)

(前略)普遍的な人生のドラマをほかの民族の資料を使って書こうというのなら、短編よりも長編、そして本当らしいほうがいい。このごろの厚い記述というのは、オントロギーの不足をドラマトゥルギーで補おうとするようなところがある。そこで劇場国家、言語宇宙のなかの出来事になっている。私はどちらかというと存在論に魅力を感じているけれども、だからといってドラマがつまらないとは言わない。二本の道が、それぞれ自分のゆき方を自覚して、その道を進んで欲しいものです。(p.16)
同書所収の鎌田東二「「道」としての学問」(pp.127-131)*2から少し。
「自分自身をその中に完全に没入させていって、それまでの学問的な問題意識すらもいっぺん消してしまって、対象と同化し、なり切っていくというプロセスを辿ろうとする、こういう一部の突出した人類学的な研究のスタイルというものは、けっして新しいものではなく、私が考える国学とか純正の伝統的学問はだいたいそう言っておりまして、一つのものに没入していくという態度をとる」(pp.129-130)。

学問とは近代においていったい何だったのかについて、私は古くからある学問のあり方をかつての『翁童論』その他の著作で「道としての学問」として提示しました。それに対して近代の学問は「方法としての学問」が主流であった。デカルトの方法的懐疑、物心二元論からくる存在論的、認識論的な枠組みの上で、合理性や実証性を追究し、方法的禁欲をはっきりと限定する方法が主流を占めた。それに対して「道としての学問」は非常に古くからあって、それは一度非常に衰えた形になったが再度自覚的に取り上げられるような方向も出てきたのではないかということです。
それから、最近考えていることで、もう一つは、これは岩田慶治さんなどに非常に自覚的に持たれていると思うんですが、「表現としての学問」というか、「作品としての学問」というような、学問への取り組み方が一方である。実証性や合理性、ロゴスというものを非常に厳密に用いようとする方法としての「学問」。また、体験とか体現性のような、ミュトスやテオス、エートスというものを実存的に追究していこうとする「道としての学問」。あるいは、芸術性や詩的感性、パトス、エロスというものを追究する中で、その学問も非常に表現性を持った形で展開できると考える「表現としての学問」。そういう少なくとも三つの、学問に対する構えがあるのではないか。(pp.130-131)

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130313/1363141131

*2:島薗進報告「宗教理解と客観性」へのコメント。