http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061109/1163096222に関連するか。
こういう措置というのは至極当然のことなのかも知れない。これで本当に自殺者が出たら、豊島区や区内の学校は猛烈な糾弾の嵐に見舞われることは必定である。また、〈いじめ〉事件が発生すると*1、何故気付かなかったんだという非難が教師や学校或いは教育委員会に浴びせられる。世論は(それが物理的に可能かどうかはともかくとして)子どもの監視を強化しろという圧力になる。〈いじめ〉に限らず、子どもが犠牲者になる犯罪の発生でもそうなのだが、たしかに監視を強めれば、事前に事件の発生を回避したり加害者を迅速に摘発する可能性は高まるだろう。しかし、それは確実に〈いじめられた人〉にとっての〈逃げ場〉を少なくとも1つはなくしてしまうことになる。つまり、lonelinessはいくらでも経験できるが、solitudeは経験できないということになる。多分、かつて忌野清志郎が
いじめ自殺予告日、東京・豊島区で関係機関が厳戒
いじめを苦にした自殺を予告する手紙が相次いで文部科学省に届いている問題で、1通目の手紙が学校での自殺を予告した11日、投函(とうかん)された可能性が高い東京都豊島区内では、関係機関による警戒が続けられた。
同区立の全小中学校31校では、早朝から校長らが学校に待機。すでに泊まり込み態勢に入っている同区教委も様子を確認するため、各校に職員を巡回させた。
ある区立小では、校長ら4人が待機する中、午前9時半に区教委職員が訪れ、教室を見て回った。この小学校では、一般に開放している体育館と一部教室を除き、教室をすべて施錠。廊下の物品も消火器以外は取り除いたという。
(読売新聞) - 11月11日14時39分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061111-00000005-yom-soci
と歌ったような場所はその存在を許されなくなるのだろう。
Woo授業をサボッて
陽のあたる場所に いたんだよ
寝ころんでたのさ 屋上で
たばこのけむり とても青くて内ポケットに いつも
トランジスタ・ラジオ
彼女 教科書 ひろげてるとき
ホットなナンバー 空にとけてった
(http://www.asahi-net.or.jp/~sx4t-akym/critic_music/singleman.htmから引用)
大人というか、教育者どもやセキュリティの番犬どもはいうのだろう。〈いじめ〉の温床でもあるような*2監視の死角がなくなって、君はもういじめられる心配はない。君はもう安全だ。だから、逃げる必要なんてない、と。勿論、こうした〈セキュリティの言説〉には正面から根柢的に反論する必要はあるだろう。しかし、ここでは別のことをいう。〈いじめ〉というのはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061107/1162927176で述べたように、物体が存在しているような仕方で存在しているのではない。当事者や観察者によって〈いじめ〉が構成されることによって〈いじめ〉は存在し始める。しかしながら、構成するという作用は特定の個人的・集合的主体に帰属させることはできない。構成作用は中動体的な仕方で、或いは(仏蘭西語文法から借用すれば)代名動詞的な仕方で生起する。だから、個別的な主観性と間主観的に構成されて客観的な存在の地位に居座ってしまう〈事実〉との間には常に齟齬がある(可能性がある)*3。極端な話、いくら私が〈いじめられている!〉、〈生きていくのが苦しい!〉と感じて、そう訴えても、It is a coinage of your brain!と言われてしまう可能性はあるし、また事実そうである可能性もあるのだ。その場合、〈客観的〉には〈いじめ〉は存在しないのだから私は逃げられない、逃げてはいけないということになるのだろうか。そうではあるまい。何がいいたいのかといえば、〈セキュリティの言説〉は〈いじめ〉に関する自然主義的態度を前提としている。そして、それはその自然主義的態度によって措定された客観的存在を脅かす出来事に対しては、その存在、存在への権利を抹消するという暴力的な振る舞いをする(可能性を孕んでいる)。勿論、構築主義的というか現象学的態度が解除されなければ、〈いじめ〉について語ることはできない。しかし、そのようにして語られる〈いじめ〉に存在論的な特権が(自然主義的態度によって)賦与されていないかどうか、点検される必要はあるのだろう。
あと、逃げ場であるが、逃げ込むべき隙間は自分で探すのがいいのだろうと思う。もし、垂直的に与えられるという場合、それが限りなく隔離や幽閉に近づく可能性は否定できない。