隠蔽・抑圧装置としての「ゼロ」?

内田良*1「「いじめゼロ」「不登校ゼロ」の落とし穴――岩手県矢巾町立中学校の自死事案を手がかりに考える」http://bylines.news.yahoo.co.jp/ryouchida/20150718-00047655/


先頃岩手県矢巾町の中学2年生の少年が「いじめ」を苦にして自殺したが、何と「矢巾町内のすべての小中学校(小学校4校、中学校2校)で、いじめの件数が昨年度から毎月「ゼロ」であったことが明らかとなった」。少年は自らが被った暴力的ないじめを訴え続けていたというのに。それは矢巾町が「矢巾町いじめ防止基本方針」*2を策定し、「いじめゼロ」を目標としてたことと関係しているという。「いじめゼロ」を目標にすると、「いじめ」を報告しづらくなる。それによって、「目標」達成は遠のいてしまうからだ。また、被害者が被害を訴えても、その訴えが隠蔽されたり、それは「いじめ」ではないといった再定義をされて「いじめ」としてカウントされない可能性もある。
まあ〈搾取ゼロ〉を目指すことを自称する社会主義国でとんでもない搾取が行われ、しかもそれが隠蔽されるということと似ているのだろうか。
それにしても、矢巾町に限らず教育関係者っていうのは、マジで「いじめゼロ」が可能だと信じているのだろうか。極限的な目標として、或いは(カント的な意味での)統制的原理*3として「いじめゼロ」を掲げるというのはわかる。人間関係が生起すればそれと同時に理不尽な諍いや縺れの可能性も生起するのであり、だからこそ裁判所の必要性も存在するわけだ。(ここでは詳論はできないが)目的意識行為としての「いじめ」は私たちが〈人間〉であることの根幹と関わっているように思えるが、それはともかくとして、「ゼロ」とかを目指すよりもできるだけ「いじめ」を減らすこと、その悪質さを緩和すること(洒落では済ませられない「いじめ」を阻止すること)を考える方が現実的だろう。人間の実存に対するデリカシーの欠如した者どもによって、縦しんば「いじめゼロ」が実現したとしても、その結果はさらに悲惨なことになる可能性だって否定できないのだ。