「あんとに庵」様*1からコメントをいただいて*2、以前永井荷風の浮世絵論『江戸芸術論』(岩波文庫)
- 作者: 永井荷風
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2000/01/14
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というパラレル図式を提出していたと思う。
勿論、荷風は仏蘭西帰りなので印象派を熟知していたのは当然として、日本への印象派の本格的な導入というのはどうなっているのだろうか。
Googleをかけて幾本かのテクストを見ただけなので、例によっていい加減なのだけれど、日本における印象派の導入にはちょっとした捻れがあるようだ。日本の近代アカデミズム絵画の元祖である黒田清輝*3が仏蘭西から明治20年代に日本に持ち帰ったのが、「印象派の画家ほど純粋に感覚的になることはなく、むしろアカデミックな写実性をもたもちながら、印象派的な明るい外光表現をといれるといった折衷的な」画風だった*4。また、その当時、仏蘭西では印象派は既にアカデミー派を押しのけて、主流の地位を占めつつあった。それに対して、在野における本格的な印象派の紹介は黒田の帰朝から約20年遅れた明治40年代以降である*5。その頃には、黒田は東京美術学校教授から「帝室技芸員」を拝命するなど、体制派中の体制派になっていたわけである。
さて、小林俊介氏は「プロレタリア美術と戦争画における「国民」的視覚」http://www.e.yamagata-u.ac.jp/~shun/proletar.htmlにおいて、先ず柄谷行人の議論を踏まえて、近代日本における「風景」と「国民国家」の関係について、
と述べ、さらに、
「風景」とは、眼前の一瞬をある一点からの視覚的映像として、写真(photograph)のように切り取ったものである。その原理は、アレゴリカルな「時間性」ではなく、「瞬間性(同時性)」である。同時性というのは、別の視点からは、同じ瞬間でもまったく違う映像が成立することになるからである。そして、瞬間性=同時性こそ、ベネディクト・アンダーソンのいう「均質で空虚な時間」 、すなわちナショナリズムの成立を特徴づけるものなのである。換言すれば、どの階級の者がみても、ある瞬間にある視点から眺めた映像は同一である(写実)という認識こそ、国民と国家の同一性を形成するといえよう。遠近法的・映像的な写実こそ現実である、という認識である。近代以前の日本の視覚形式は階級によってばらばらであった。錦絵=浮世絵が庶民のものであったのに対し、狩野派や淋派は支配階級や富裕層のものであった。いわば、階級によって視覚的現実が異なっていたのである。これでは、そのために(兵士として)死ぬことができるような、国家と国民の同一性を形成しようがない。現に、近世以前の合戦では、徴用された足軽たちは自軍の旗色が悪くなると平気で逃げ出したのである(日清戦争における清国軍の兵士も同様である)。階級的差異を統合し「国民」を形成するには、廃藩置県のような行政的手段だけでなく、国民的な「現実」が共有されなければならなかったといえる。そして、日清・日露の両戦争はそのような国民的現実を形成するものであり、その美術的表現たる戦争画の映像的・写実的表現はそれと平行しているのである。そして、日露戦争後から大正期にかけて、名所旧跡ではない、いわゆる風景の写生が大流行するのは、眼前の景物を写生したものとしての絵画という認識、換言すれば視覚的・映像的な絵画観、すなわち「国民」的な絵画観が広く浸透したことを如実に示している。今日でも多くの人にとって絵画は視覚的な写生であり、それ以外のものは「抽象」的なものとみなされる。付言すれば、この抽象という意識もまた写生・写実的な、すなわち視覚的・映像的絵画観を前提としているのであり、ゆえに「抽象」的なものが必ずしも「国民」的なものでないとは限らない。明治以後の我々の視覚は、いやおうなく近代的的な「空間」や「風景」を前提としてしまっているのである。
と述べている。また、黒田については、
このような映像的視覚の絵画表現における対応物はいわゆる印象派的なものであると筆者は考えている。印象派的な視覚は資本主義と国民国家の形成と平行しているといえよう。いわゆる風景画がオランダとイギリスという資本主義の先進国において発達したことはその例証である。もっとも、一七世紀から一九世紀前半頃までの風景画がいまだピクチュアレスクな物語性にとらわれているが。さらにいえば、たしかに西洋絵画では写実的な表現が一五世紀頃、いわゆるルネサンス以降から形成されていくが、西洋近世絵画は他方でアレゴリカルな物語性や、実体的な物質観を持っている。グリザイユ(単色)による物体描写のうえに透明なグレーズ(上塗り)によって固有色を表現していく、という近代以前の重層的な古典的油彩画法は、実体としての物質を否定していない。しかし、印象派的な視覚は、不透明なプリマ画法によって現に眼に映じている色(光)を絵具に瞬時に置き換えていく、という映像的なものであり、色彩的(光学的)現象のなかに還元されてしまう。モネのような印象派の典型的な作家はまさに「眼」たらんと欲している。
と述べ、「日本のプロレタリア美術や戦争画もまた、基本的には黒田以来のこの「国民」的視覚に基づいている」としている。
そして、 印象派的なものの移入として定着した黒田清輝以降の近代洋画の主流が、技法的にも印象派的な、不透明なプリマ画法に終始していることは、瞬時的な映像的視覚が日本の「国民」的視覚を形成してきたことをよく表している。黒田清輝が歴史画を日本のアカデミズムに導入しようとして失敗したことはよく知られているが、皮肉にも、そのことによってこそ黒田は国民的な、すなわち体制的な視覚を日本に定着させたといえる。
私見を差し挟めば、重要なのは、黒田が仏蘭西で師事したラファエル・コランのような、純粋な印象派ではなく「アカデミックな写実性をもたもちながら、印象派的な明るい外光表現をといれるといった折衷」ということなのではないだろうか。印象派をラディカルに突き詰めると、統覚なき知覚という状態に到ってしまう。それを押しとどめているのが「アカデミックな写実性」との折衷であろう。実はそれを体現しているのは写真というテクノロジーに基づいた写真という実践であろう。また、「アカデミックな写実性」との折衷によってもたらされたものとしてのイデア性があるだろう*6。例えば、労働者の絵があるとする。それは個体としてのこの労働者の絵であるとともに、労働者というイデアールな一般項のサンプルでもある。リアリズム(写実主義)が社会主義リアリズムであろうと資本主義リアリズムであろうと、プロパガンダ機能を果たすのはこのイデア性故である。而るに、印象派(それをラディカルに突き詰めれば抽象絵画になってしまうし、また時間性と空間性の矛盾はその自然な流れとしてキュービズムを要請するだろう)はなし崩し的にイデア性を切り刻んで、個体へと差し戻してしまう可能性がある。
話はまた戻って、アカデミズムが先取り的に印象派を導入したことは、日本のアートにおける体制と反体制の対立を曖昧にして、ハードコアなアカデミズムと反体制的なアヴァンギャルドが壮絶なバトルを繰り広げる中で、全体としてのアートの水準が弁証法的に向上していくという可能性の不在を基礎付けているといえなくもない*7。また、酒井哲朗氏によると、明治40年代以降の下からの印象派導入、さらにはポスト印象派の導入は、「大逆事件」などの政治的な閉塞状況における「社会」からの引き籠もりに結び付いていた*8。
〈日本人と印象派〉ということからすれば、まだ全然わからないことばかりである。印象派が大衆的に浸透するためには、それが美術学校で議論されたり美術雑誌に載ったりする以上のことが必要である。例えば、銀行のカレンダーとか、義務教育レヴェルでの教科書とか。そういうものの起源については、正直言って全然知らないのだ。
さて、浮世絵ということにまた話を戻すと、小林俊介氏は戦時中の藤田嗣治の戦争画に「「国民」的視覚」としての印象派的なものからの離脱を認めている。それも本家の印象派を刺戟したといわれる浮世絵への回帰を梃子としつつ。
*1:http://d.hatena.ne.jp/antonian/
*2:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061110/1163180750#c1163254944
*3:Cf. 田中淳「黒田清輝の生涯と芸術」http://www.tobunken.go.jp/kuroda/gallery/japanese/life_j.html
*4:田中「黒田清輝の生涯と芸術」。また、森本孝「黒田清輝と明治の洋画界」http://www.pref.mie.jp/bijutsu/HP/hillwind/hill_htm/hill15_3.htmを参照。
*5:「黒田清輝と明治の洋画界」、「日本近代の美術2 大正の個性」http://www.linkclub.or.jp/~qingxia/cpaint/nihon28.html、酒井哲朗「「芸術と人生」─1910年代の日本美術をめぐって」http://www.pref.mie.jp/bijutsu/HP/hillwind/hill_htm/hill53_2.htm
*6:写真がこのイデア性を獲得するのは、複製または反復的なidentificationを通じてであるといえるだろう。
*7:勿論、こういう図式自体がかなりの程度近代主義的な絵空事であるともいえるのだが。
*8:http://www.pref.mie.jp/bijutsu/HP/hillwind/hill_htm/hill53_2.htm