承前*1
内田樹「白川静先生を悼む」http://blog.tatsuru.com/2006/11/06_1234.php
http://d.hatena.ne.jp/suehiro3721p/20061106にて知る。
曰く、
また、
漢字の原義(に限らず、なにごとにおいても「起源のようす」)について知りたくなるのは子どものころからの私の癖である。
この幼児的で法外な好奇心をつねに満たしてくれる思想家として私が名を挙げることができるのは、マルクス、フロイト、レヴィ=ストロース、そして白川静の四方である。
この四人の共通点は、「人間の諸制度はそもそもどういうところから始まったのか?」という起源にかかわる問いから決して目を放さなかったことにある。
人間社会の起源には非文化から文化に「テイクオフ」する瞬間の劇的な快感が存在する。
別にその場に居合わせたわけではないから、断言するのは憚られるのであるが、たぶんそうだと思う。
文化とはこの浮遊するような快感をもう一度味わいたいと願った人々が反復した行為が集団的に模倣され、やがて制度化したものである。
だから、人間的諸制度の基本には「気分を高揚させる」か、または「悪い気分を抑制する」身体的実感があったはずである。
そうでなければ、文明が始まるはずはない。
白川先生の漢字学は、古代中国においては、地に瀰漫していた「気分の悪いもの」を呪鎮することが人間たちの主務であったという仮説の上に構築されている。
古代の人間はそのほとんどの時間とエネルギーを「邪気」を祓うために費消していた。
それが有名な白川先生の「サイ説」である。
さらにいえば、白川先生の学は〈言語学〉というディシプリンそれ自体の存立を脅かすものであった。何しろ、言語学にとって文字というのは〈言語〉の純粋性を脅かす必要悪にほかならないからだ。また、同じ意味において、白川学は〈反−国学〉であったともいえるだろう。
白川先生の漢字論は「コミュニケーションの道具としての言葉」という功利的言語観と隔たるところ遠い。
私たちが言葉を用いるのではなく、言葉によって私たちが構築され変容されてゆく。
白川先生はそう教えた。
この言語観はソシュール以後の構造主義言語学やレヴィ=ストロースやジャック・ラカンの構造主義記号論と深く通じている。
そういう意味で白川静先生は「日本を代表する構造主義者」と呼んでよいのではないかと私は思っている。
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