アドルノとかホルクハイマーとか

承前*1

実はベンヤミンを除いては、フランクフルト学派にはあまり関心はない。特に第2世代のハーバーマスに関しては、晩年のデリダは一応〈手打ち〉をしたわけだが、常に〈エンガチョの思想家〉だと思ってきた。勿論、第1世代とハーバーマスの間にある断絶も承知してはいる。
ところで、フランクフルト学派というか、アドルノとホルクハイマーをシリアスに読んでいる方のエントリー;


http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20061019/p3
http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20061020/p1
http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20061024/p2


http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20061019/p3にて、『否定弁証法』について曰く、


アドルノは「非同一性の人」とよく呼ばれるのだけれど、この本でも基本はそう。合理的理性(ラチオ)による同一性の認識に対しての疑問のまなざしが注がれ、カントやヘーゲル、そしてハイデガーに対して「限定的否定」としての「批判」がされている。とくにヘーゲル弁証法否定の否定は肯定)に対しての批判は厳しい。ここでアドルノはアンチテーゼ的な「特殊者」(否定の否定によって肯定とされ、普遍性のなかに取り込まれる者)を擁護する立場に経とう(sic.)としている。途中、ホルクハイマーと共著『啓蒙の弁証法』で試みられた啓蒙に対する批判も挿入しながら、アドルノは非同一性にとどまろうとしているように思われた。
贅言ではあるが、「非同一性」の擁護というのは、アドルノにとどまらず、俗にポストモダンと称される思考の基調であることは周知のことであろう。また、フランクフルト学派の「道具的理性」批判にある、Give rationality a chance! という発想はフッサール現象学にも共有されているところであり、木田元先生が『否定弁証法』の翻訳に加わっているということは、ただたんに生松敬三との友情のためということではないだろう。
さて、「少々言いすぎになるかもしれないが、彼が批判するヘーゲル弁証法のなかの「特殊者」は、ヨーロッパにおけるユダヤ人のアナロジーであったと言っても良い(かもしれない)」とは面白い解釈だが、はたしてそこまで言えるのか。また、読者の立場において、そのように「ユダヤ人」を特権化していいものかどうか。また、この方は、ホルクハイマーの『理性の腐蝕』に触れて、「序文から「われわれの哲学は一つである」とか書いてあって二人の若干ホモセクシャル的な関係性を伺ってしまう(実際はどうかしらない)」*2と書いている。Adornoは父親が猶太人で、母親がイタリア系であり、Adornoとは母方の姓。これについて、ハンナおばさんは、非猶太的な姓を名乗っていれば猶太人迫害から逃れられると思い込んでいるその根性が汚らしいと罵倒していたという。勿論、ハンナおばさんとアドルノとの関係は基本的には〈不信〉であるので、そこのところは割り引いて考えなくてはならない*3。このことはアドルノにおけるマザー・コンプレックスという面から何か言えるのではないかとも思うけれど、どうなのだろうか。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061015/1160883587

*2:http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20061024/p2

*3:ベンヤミンから託されて、その遺稿を紐育にいたアドルノの許に届けたのはハンナおばさんだったが、その時もアドルノのことを全く信じていなかったので、密かにベンヤミンの遺稿のコピーを取っており、後に独自にIlluminationsを編輯する。