オナニー(by 会田誠)

会田誠については一度だけ言及していた*1
会田の「「色ざんげ」が書けなくて(その二)」という文章(『星星峡』187、pp.70-73)から(長文ではあるが)メモ;


「セックス」とは男にとって、「男になることを自らに強要する行為」です。ボーヴォワールの有名な言葉に「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」というのがあります。その詳しい意味や主張は分かりませんが、僕は初めてそれを聞いた時、「男だって人生のある時期、社会によって無理やり”男になれ”と強要されるのになあ……」と体験的に思ってしまいました。
「お姉さんが教えてあ・げ・る 」とか「男を食い物にするカマキリ女」みたいな例外もあるでしょうが、やはりセックスとは一般的には、男側がイニシアティブを取って能動的に相手をリードしなければ何も始まらないもの。つまり人間の男女には能動/受動という力関係におけるアンバランスさがあらかじめ存在しています。そしてそれは男性器と女性器の機能と形態に由来する、生物学的に根の深い問題です。かたや勃起して硬くならないと使い物にならない棒状のもの、かたや相手への信頼がなければ容易に開かない穴状のもの。そしてその性質が極端な形で現れたものが、フェミニストのみなさんを永らく苦しめてきた「男尊女卑」や「性暴力」といったものなんだろうと僕は考えています。
男性不信に囚われたハードなフェミニストさんの中には、男という生き物はみんな、
「女という他者を力で支配できる側の運命に生まれ落ちた俺って、超ラッキーだぜ 」
と思っていると考えている人がいるかもしれませんが、はっきりと「それは違う」と申し上げておきます。逆に「能動が義務」という自らの運命を嘆き、自分に男性性を押し付けた天を呪い、股間にぶら下がったチンポコを持て余したまま虚しく立ちすくんでいる男性は、存外多く存在するのではないでしょうか。−−ここまで書けば多くの読者はお察しかと思いますが、思春期から青年期にかけての僕は、まさにそんな哀れな人間のオスの一典型でした。
男なのに能動ではなく受動しかピンとこない。それならばウケの−−つまり肛門に入れられるタイプの男色家になればよかったじゃないか−−そう言われるかもしれません。そう、理屈の上ではそれがベストアンサーでしょう。時代や環境が違えばそうなって、人生はハッピーエンドだったかもしれません。しかしそうはならなかった/なれなかった。なぜなら、相手がいなかったから。その相手とは「同性愛のタブー意識」という固い鎖を引き千切ってくれる、かなり強引で魅力的な誘惑者でなければなりません。欲望渦巻く大都会の怪しげな裏路地ならいざ知らず(テキトーなイメージですが)、地方の退屈な新興住宅地で育った少年は、どうやってそんな年長の男性と出会えるのでしょうか?
というわけで、もはやオナニーしかないのです。社会の「男になれ」という隠然たる要求をボイコットしたい「男未満の者たち」は深夜自室に籠り、オナニーで「女になる」のです。(pp.71-72)
「社会の「男になれ」という隠然たる要求をボイコット」するために「オナニー」したことはないな。そして、「男性性」=「能動」ということをあまり信じていない*2。男性にとって自己と自らの性器との関係における重要な特性は外在性ということだろう(Cf. 澁澤龍彦『玩物草紙』)。それは外部に可視的に露出しているということに由来するわけだが、それだけに止まるわけでもない。そこから代替可能性ということが出てくる。男性器は他のものによって隠喩的に代替されうるのである。女性器の場合にはこういうことはありえない。さて、Ian Buruma氏*3が『日本のサブカルチャー』の中で、日本の「ポルノ映画」を巡って、

映画における実際の性交はけいれん的動作ばかりを示す。歓びの表情はどこにもなく、男女のまがまがしい性器が見えてしまわないようい椅子や花瓶の背後から撮影される。犠牲者は裸なのに、男性はいつも衣服を充分に着けており、ズボンを膝まで下げることはめったにない。時にはズボンを全然下げる必要がないことがある。鞭、ろうそく、ピストル、靴べらが、男の体を使う必要を感じさせるまでもなく、立派に女たちを犯していくのだ。
こうしたシーンを数え切れないほどに見ていると、これらのポルノ映画が、実際上何を扱っているのかが明らかになってくる。どんな不安を取り除こうとして、男性が一方的に女性を責めさいなむようなポルノが作られているのか−−答えは明快である。それは、男性の不能に対する絶望的な恐怖感である。といって、このような不能に対する恐怖感がポルノ制作者たちによって隠されているわけでもない。日本のポルノは、その意図については非常に率直である。(pp.70-71)
と書いていたのだった。
玩物草紙 (朝日文芸文庫)

玩物草紙 (朝日文芸文庫)

日本のサブカルチャー―大衆文化のヒーロー像

日本のサブカルチャー―大衆文化のヒーロー像

  • 作者: 山本喜久男,イアンブルマ,Ian Buruma
  • 出版社/メーカー: 阪急コミュニケーションズ
  • 発売日: 1986/06
  • メディア: 単行本
  • クリック: 9回
  • この商品を含むブログを見る