マイナーではいけない?

中国版の『CanCam』が発行部数伸び悩みのために停刊したのは昨年のことだったか。

さて、内田樹氏の「めちゃモテ日本」*1。内田さんは自身のゼミの学生のレポート(?)を援用して、


そのCanCamのコンセプトは「めちゃモテ」。
ただの「モテ」ではない。
「めちゃモテ」である。
「めちゃ」という副詞部分にオリジナリティはある。
JJのファッション戦略が「本命男性一人にとことん愛されること」であるのに対して、CanCamのめざすところは「万人にちょっとずつ愛されること」なのである。
だから、「めちゃモテのターゲットは必ずしも結婚対象の男性だけとは限らない。例えば女子アナがみなCanCam系『めちゃモテ』ファッションなのは子供からお年寄りまで幅広く受け入れられるからではないか」
とM村くんは書く。
と書く。さらに、

現代の若者たちの一部は依然として「オレはオレ的にオレがすごく好き」という自閉傾向のうちにとどまっているが、トレンドのメインストリームはどうやら「みんなにちょっとずつ愛されたい」方向にゆっくりと舵を切っている。
これは社会的態度としてはある種の「ゆきすぎ」に対する補正が働いている徴候とみなしてよろしいであろう。
「めちゃモテ」が補正しようとしているのはおそらくあの「わたし的」路線である。
「わたし的には、これがいい」という自己決定を断固として貫くことが個人にとって最優先する、という考え方が生存戦略上かならずしも有利ではない、ということについての国民的合意が今形成されつつある。
「CanCamひとり勝ちシンドローム」はその徴候である。
社会的リソースを競争の「勝者」に優先的に分配する「グローバリゼーション・システム」においては、自己責任でシティライフを享受できるのは、「強い個人」に限られた。
「親方日の丸・護送船団方式」の廃棄、家族の解体によるセーフティネットの破綻、終身雇用制の崩壊、非正規雇用の拡大、教育崩壊、医療崩壊、年金不安、ネットカフェ難民・・・といった一連の「グローバリゼーションの暗部」は「弱い個人」たちを標的にその生存をリアルに脅かしつつある。
グローバリゼーションに国民が拍手を送ったのは「自分もいずれ勝者になれる」という(根拠のない)夢を国民の過半が自分に許したからである。
もちろん、そんな夢は実現しなかった。
この種の競争ゲームでは「勝ものは勝ち続け、負けるものは負け続ける」というポジティヴ・フィードバックがつよく働くので、短期的にひとにぎりの勝者と圧倒的多数の敗者に社会は二極化する。
結果的に「自分程度の才能では、いくらじたばたしても社会的勝者になる見通しは薄い・・・」という痛苦な事実を先行世代の「負け」ぶりから学習したより若い世代は、「強者が総取りする」競争システムよりも、「弱者であっても生きられる」共生型社会の方が自分自身の生き残りのためには有利だろうという判断を下した。
そして、「弱者が生き残る道」は2つあるという;

一、「強い個人の庇護下にはいる」。
いわゆる「玉の輿狙い」戦略だが、「乗ったつもりの玉の輿」の意外な信頼性の低さに人々は気づき始めている。JJが退けられ、CanCamが選ばれたのは、「玉の輿」戦略のリスクの高さがしだいに知られてきたからであろう。
二、「周囲のみんなからちょっとずつ愛される」
「CanCam的「めちゃモテ」戦略」は後者に属する。また、

もちろん、いまだに「わたし的にきもちいいいから」ということだけを根拠に傍若無人、ひたすらエゴイスティックにふるまう若者たちも少なくない。
けれども、彼らはリソースの配分においても、相互支援ネットワーク構築によるリスクヘッジにおいても、すでに大きく遅れをとっているから、遠からず社会最下層に吹き寄せられることになるだろう。
と。結局、「私はCanCam型の「みんなに愛されるラブリーな女の子」志向は、そのふやけた外見とはうらはらに、実は私たちの社会がより生きることがむずかしい社会になりつつあるという痛ましい現実をシビアに映し出していると思う」という。この後で、日本国憲法第9条の話になるのだが、ここではそれは取り上げない。
これって、要するに、メジャーであれ、マイナーになるなということだよね。メジャー? ベストセラー本とかTop40的なポップスとか、メジャーなもの=ださいものとして、唾を吐きかけてきた筈。そのようなものどもが支配的になる世界。1980年代の何時頃だったか、村上春樹氏が何故日本の男性雑誌はつまらないのかということを『ブルータス』に書いていて、それは読者の好みを反映しすぎているからだということだった。どの雑誌でも読者アンケートなどによって読者の関心を把握するのに余念がないが、そんなことをすれば、自動車のこととかセックス(orナンパ)のことが上位になるのはわかりきっている。それに基づいて雑誌を作れば売れるに決まっているわけだが、それが取り立てて面白くないことも目に見えている。そういう内容だったと思うが、そういうものが支配的になる世界だ。何のことはない、「「めちゃモテ」戦略」というのは資本主義にとっては常態なのであって、差異化やら多様化やらが積極的な要素として持て囃された方が却って〈異常〉だったのかも知れない。
また、この戦略というのは大企業に徹底的に有利なものでもあるだろう。「みんなからちょっとずつ愛される」ような商品を大量かつ安価に市場に出すことにおいて、中小の資本では資金力に長けた大資本には太刀打ちできないからだ。「「めちゃモテ」戦略」が支配的な社会が「より生きることがむずかしい社会」だというのは、マイナーであることが許されないような社会だということだということなのだが、さらに問題は「みんなからちょっとずつ愛される」ということにありそうだ。これって、換言すれば、とにかく嫌われないことを目差すということですよね。或いは、嫌われたらお終い。ということは、こういう馬鹿どもに嫌われても、自分を愛してくれる人はほかにいるからいいもんという態度が採りにくくなるということだ。これは疲れる! さらに、「みんなからちょっとずつ愛される」から外れるようなマイノリティに対する差別はさらに厳しいものになることも十分想像できる。