「専門家」の傲慢或いは慎み

http://blog.zaq.ne.jp/spisin/article/134/


伊田広行さんが「専門家」の傲慢を批判している。同様に「専門家」にむかついている人は多いだろうし、これと同じような〈自己嫌悪〉を抱いている(良心的な?)「専門家」もまた少なくないのではないだろうか。
伊田さんは冒頭で「カウンセラー」を例として書いているのだが、もしかしたら、それは「専門家」の傲慢どころか或る種の慎みだということもあるかも知れない。http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060830/1156904686で引用した田島正樹氏はhttp://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/50279386.htmlで、


もちろん、生徒を愛していると感じさせても、無視していると感じさせてもいけない。教師は、「無償の愛」ゆえに教育に従事しているのではなく、ただ給料のために教育しているのだとわからせなければならない。さもなければ、生徒は決して教師から自立することはできないだろう。もちろんこのことは、生徒の側では謎を残す事になる。先生に転移した生徒にとって、教師が有限な金のために教育に従事しているはずがないと感じられるからである。教育においては、教師が与えるものと、生徒が受け取るものの間に、常に大きなギャップが存在するのだ。知識や情報のギャップではなく、教育という人間関係の意味についてのギャップこそ、教育を働かせるための機動力である。
と書いている。このことは、教師−生徒関係だけでなく、あらゆる「専門家」−クライアント関係に妥当するだろう。そのような歯止めがないと、たんなるサーヴィスの提供がクライアントへの人格的支配に繋がりかねない*1。その場合、搾取は金銭だけではなく、愛情とか人格とか親密性とかに及ぶ。また、「専門家」が自らの〈カリスマ性〉や正義感に酔ってしまったら、自らを(自らが「専門家」であることも含めて)相対化する可能性はなくなってしまう。こういう事態は相互行為的に生起するのであるが、たしかにマネーこそ酔い醒ましの効果を有することがあるのだ。報酬を払った(受け取った)瞬間に身も蓋もない俗世間に逆戻りというわけだ。『必殺』シリーズは幾つもあるが、そのどれだったかで、ある若造が正義感ぶって無料で(復讐のための)殺しを引き受けようと言い出したのだが、中村主水俺たちはただの殺し屋にすぎないんだと一喝してしまった。この限定によって、「仕事人」の暴力は限定されたものとなり、無際限の〈正義〉の名の下での暴力から免れることになる。因みに、ここで念頭に置いていたのは、ハンナおばさんが『革命について』で論じていた「憐憫」という感情が誘発する無際限の暴力という問題である。
勿論、それが全てではない。マネーというのは愛情とか尊敬の表現という意味を持ってしまう場合がある。それは悪いことばかりではない。しかし、それによって人間関係が拗れてしまう場合もある。最悪なのは、「専門家」の側が(提供したサーヴィスのたんなる対価にすぎないものを)積極的にそう思い込まそうと仕組むことによって、無際限の搾取の連鎖に巻き込まれてしまうということだろう。多くの〈宗教〉的暴力、スピリチュアル・ハラスメントといわれるものはそのような機制を有する。
伊田さんのテクストに戻ると、後半は相田みつを論。

*1:逆に、「専門家」へのクライアントによるストーカー行為というリアクションを帰結する可能性もある。