正当化されて

拙blogの過去の記事を自己検索していたら、そのまんま東東国原英夫)が「体罰」を大いに肯定していたということがあった;


東国原・宮崎県知事:「体罰は愛のムチ。条例できぬか」と肯定発言

 宮崎県の東国原英夫知事は18日の県議会本会議の終了後、記者団に「体罰は愛のムチ。昔はげんこつで教えられたが、最近はできなくなっている。愛のムチ条例はできないか」と、体罰を肯定する発言をした。この日の一般質問で、印象に残った質問を問われ、突然「愛のムチ条例」に言及。議会では、自民党議員が教育問題を取り上げたが、体罰の是非には触れなかった。

 知事は昨年11月、若手建設業者との懇談会で「徴兵制はあってしかるべきだ」と発言。「不適切だった」と謝罪している。【種市房子】

毎日新聞 2008年6月19日 東京朝刊

http://mainichi.jp/select/seiji/archive/news/2008/06/19/20080619ddm041010168000c.html
(Cited in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080624/1214278073 )

さて「体罰」について、

学校における体罰に関してしばしば聞かれるのは、教師が「ついかっとなって手を上げてしまった」というようなことである。この場合、普段から教師自身にあまりに大きなストレスがかかっていたことや、生徒たちの態度があまりに酷いものだったこと、などが理由として述べられることになる。

それを聞くと、「そういう事情であれば、自分でもそうするかもしれないな」と思い、その体罰を容認するような意見を心に抱きがちである。

だがよく考えてみるべきなのは、上のような「理由」がどれほど切迫したものだったとしても、自分よりも体力的に強かったり、社会的な立場が上であったり、権威なり後ろ盾を有しているような相手に対して、自分は果たして暴力や暴言を振るうかということだ。

僕も、かっとなって相手に酷い言葉を投げつけることはしばしばあるし、過去には「ストレスのあまり」陰惨な暴力を振るった経験もある。

だがその場合、相手はたいてい、自分よりも弱かったり、地位や権威が低いと、僕が思っている対象である。またもしくは、攻撃しても、ひどい反撃を受ける心配のない相手(場合)だ。

つまり、「ついかっとなって」振るうような暴力というのは、たんに「やむをえない」ものではなくて、実際には弱者を選択して行使されている暴力である、と思えるのである。一言で言えば、相手をなめているから、振るえるのだ。

そういう種類の暴力を、「自分もするかも知れないものだから、やむをえない」という風に容易く思ってしまってるところが、自分にもある。

これは、僕自身が、そういう「強者による暴力の論理」を、いかに内面化してるか、という証だろう。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20130128/p1

という言説がある。
「弱者を選択して行使されている」にせよそうでないにせよ、「「ついかっとなって」振るうような暴力」は「体罰」ではない。その暴力は(幾分傾斜はあるものの)水平的な社会関係の一齣にすぎないだろう。勿論その暴力は時としてその社会関係それ自体を破壊してしまう禍々しさを持ちうるのだが。 いくら自分が(相手に対して)「強者」だからといっても、そんな強弱関係が逆転することも不可能ではない。いくら強くても、油断したり無防備になったりすることによって、いくらでも弱くなりうる。そうではなくて、「体罰」とは教師/生徒、親/子といった垂直的な制度的関係(役割関係)において行使される暴力だといえる。それだけでなく、(そもそも正当化されない社会行為なんてあるのかということはあるのだが)「体罰」は常に正当化された暴力である*1。或る場合は心情的・主意主義的に(「愛のムチ」!)、或る場合には或る種の教育効果の産出というように目的論的に。
その意味で、保坂展人*2の言説は興味深い;

つい、この間まで「教師が生徒を指導する時に、殴って何が悪い」「心で泣きながら生徒を平手打ちすることまで否定されるべきではない」と語ってきた人たちはいなかったでしょうか。言葉にしなくても、そうした考えは学校関係者の間にも根強く残っているように思うのです。子どもたちや保護者の「誤った人権意識」を「戦後教育の病理」とする指摘もあちこちで耳にしました。厳しく指導する覚悟が教師にないと知れば、子どもたちは最初からなめてかかる、とも。

 1980年代から90年代前半にかけて、私は「いじめ」や「体罰」の問題が社会的に話題になるたびに、教育ジャーナリストとしてシンポジウムやテレビの討論番組に出席すると、このような主張をよく聞かされたものです。

 いまは一時的に声を潜めているかもしれませんが、体罰容認の風潮が社会に深く根を降ろしていることを見失ってはいけないと思います。もう少し時間がたてば、「体罰は愛の鞭(むち)」論者が堂々と登場しても不思議ではありません。
(「「愛のムチ」という名の「暴力」」http://www.asahi.com/and_w/life/TKY201301280280.html*3


理由がある暴力は「体罰」、理由のない暴力は単なる「暴力」という考え方は間違いです。理由があれば、教師は指導の手段として暴力を行使していいということになりかねません。「熱心な愛情の表現」として美化されれば、教師にためらいがなくなり、暴力に歯止めがきかなくなります。 (ibid.)
「ついかっとなって」「体罰」を行った教師がいた(「体罰」なので、事後的なのかも知れないが、それなりのもっともらしい正当化は施されている;

「ハゲ」と言われ平手打ち 神奈川の教諭、生徒16人に

 神奈川県小田原市教育委員会は2日、市立中学の50代の男性教諭が生徒から「死ね」「ハゲ」などと暴言を吐かれたことをきっかけに2年生の男子生徒16人を平手打ちする体罰があったと発表した。教諭は生徒や保護者に謝罪、当分の間は教壇に立たないという。

 市教委によると、1日午後の数学の授業に男子生徒らが遅れてきたため、教諭は「早く入れ」と促したが、複数の男子生徒が「うるせえ」「ばか」などと言い、笑い声も起きた。教諭は発言した生徒を問いただしたが名乗り出ないため、遅れてきた男子生徒16人全員を廊下に正座させた。再度、ただしたが名乗り出る生徒はなく、教諭は「卑怯(ひきょう)じゃないか」と、16人全員を平手打ちしたという。

 授業の後、教諭が自ら校長に報告した。「体罰がこれだけ報道されているのに申し訳ない」と反省しているという。教諭はこれまでも生徒から「ハゲ」などと言われることがあり、「差別はいけない。言ったことの責任を持たなければならない」と諭していたという。
http://www.asahi.com/edu/articles/TKY201302020238.html(Cited in http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20130205*4

この教師が「体罰」ということでなく、たんにむかついたからクソガキどもをしめてやったということで暴力を行使したらどうだっただろうか。その場合、彼は教育制度によって保障された役割関係に守られることもなく、ただの50代の「ハゲ」として、「生徒」と水平的な関係において対決しなければならないが、その暴力は〈むかつき〉という実存の直截的な表現になっていた筈ではある。まあ、物理的な暴力など行使せずに、ハゲ! と言われたら、(例えば)五月蠅ぇ、童貞! とか言い返しておけばよかった。何れにせよ、大人げない大人は好きである。
以前、或る種の「体罰」を「肯定」するようなことを書いたことがあったのだが*5、今考えてみると、それは(「肯定」するにせよ「否定」するにせよ)「体罰」として論じられるべきものではない。