思い出すのはワイルド


# 山形 『ぼくもあの対談本を少し読んでみて、ちょっとわかったように思います。立岩(そしてその他多くの福祉関係者)があの手の議論をつむがなくてはならないのは、かれらがある一つのことばを言うことができないから、なのです。

その一言は「かわいそう」です。

ぼくが各種災害その他に寄付をするのは、かれらがかわいそうだからです。障害者に席をゆずったり、お金を施設にあげたりするのは、かれらを哀れに思うからです。これは絶対にリターンを求めての投資じゃない。施しです。そしてぼくだけじゃない。世の中で慈善活動に参加する人、そして心優しい福祉関係者、さらに立岩でもそうなんです。

でも一方で当事者たちは、かわいそうとは思われたくない。一人前の人間として扱われたい=施しを受けるような立場にはなりたくない、と思っています。でもその一方で、施しを受けないと生きていけないこともわかっています。それを自覚していればこそ、なおさら悔しく屈折した思いを味わっています。

だから、福祉の当事者ほど「かわいそうだからもっとお金をまわしてあげようよ」とは言えない立場に追い込まれてしまうのです。自分自身の出発点を否定しなくてはならないのです。

そして立岩の議論は、要するに「かわいそう」「あわれ」と言わずに、しかし社会から資源をむしり取るためにはどうしよう、ということです。

その一つの手法は、所有権をいじることです。そうすれば、何の遠慮もなく他人の家にずかずか入り込んで好き勝手に食い散らかしてかまわなくなる。「おれは当然の権利としてお前からむしるのであって、お前にもらうんじゃないんだからな、恩義を感じる必要なんかないんだからな」ということです。

そしてもう一つの発想が、あの珍妙な「最小分配国家」とやらです。かわいそうとかあわれとか言わずに、強制的に召し上げて機械的に分配する役目を国が果たせ、ということです。そのとき国は「なぜ」を考えてはいけない。なぜこんな人々にリソースを再分配しなきゃいけないの、と考えだしたら、それは「かわいそう」に直結する道です。分配はだまって、何も考えずに、一切口をはさまずに、障害者たちに負い目を与えないようにやらなきゃいけない。そういうことなんでしょう。

こう書くと、一顧だにする必要のないばかばかしい議論に見えるし、実際にそうなんだと思います。そして立岩もそれを自覚しているからこそ、それをうだうだと要領を得ない曖昧なレトリックでごまかさざるを得ない。

ぼくは dojin 氏のところで「愚痴は聞き流して支援すべきところに支援を」と書きましたが、現場では愚痴を聞いてやるのも非常に大きな仕事です。立岩はたぶんその愚痴にまじめに応対してあげようとしているんだと思います。それは見上げた努力ではあるのですが、しょせんは愚痴の延長でしかないし、たぶん何よりも、立岩自身だっていくら曖昧なことばで理屈をつむいでも「かわいそう」という湧き上がる気持ちを抑えることはできないんじゃないかなとは思います。その煩悶故に、かれのことばはあんなにも重苦しいのだと思います。』
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20060905#c1157503322

See Oscar Wilde “The soul of man under Socialism” http://flag.blackened.net/revolt/hist_texts/wilde_soul.html