金子洋一問題(取り敢えずメモ)

http://blog.guts-kaneko.com/2007/06/post_298.php(Cited in http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20100820/p3


「米国下院で可決された従軍慰安婦決議」*1について曰く、「日本にいわれのない謝罪を求めるこの従軍慰安婦決議は、米国民主主義の歴史に汚名を残したものです」と。金子洋一が歴史修正主義者の一味であることはクリアになった。さて、私は一度だけ金子洋一について肯定的に言及している*2伊藤隆敏氏の日銀副総裁選出を民主党が拒絶したということがあって、金子洋一が経済学的にはまっとうな根拠で自らの党の方針に逆らって伊藤氏を擁護したということがあったからだ。その時点で、金子の「従軍慰安婦」を巡る発言はチェックしていなかった。知っていたら、何らかの但し書きを付していただろう。勿論、金子の日銀副総裁問題についての発言は彼が悪質な歴史修正主義者であったとしても、経済学的にまっとうであることには変わりはないのだが。
現在金子洋一の日韓併合を巡る発言などを契機にして*3、所謂〈リフレ派〉に対して波風が立っている。以下略ランダムにメモ。
この件に関しては、


http://d.hatena.ne.jp/rna/20100817/p2
http://d.hatena.ne.jp/rna/20100822/p1


を先ずマークしておく。
俺は広義における〈リフレ派〉の端くれだとは思っている。例えば植草一秀に対する批判の少なくともその一部は、主観的には〈リフレ派〉の擁護のためであった*4。ところで、狭義における〈反リフレ派〉、つまりリフレとは正反対の利上げなどの金融引き締め支持するという輩は、現在論争に参加している中には見られないということもある。だから、これは広義における〈リフレ派〉内部の争いであるということも言える。しかし、もう少し視野を広げると、事は単純ではなくなる。狭義における〈リフレ派〉において、(広義なのか狭義なのか)〈左翼〉に対する不信があるということはわかる。実際にはリフレというのは〈左翼〉と親和的である筈なのに。その捩れの原因の(少なくとも)ひとつとして、〈左翼〉(の一部)である社共が狭義における〈反リフレ派〉的な政策を支持してしまっているということにあると思う。少なからぬ〈リフレ派〉が(例えば)みんなの党支持に走ってしまったことの責任の少なからぬ部分は社共(及び民主党左派)が馬鹿だったということに帰されるのではないかとも思う。奇妙なことに、現在の論争においてこのことはどちらの側も(多分松尾匡*5を除いて)問題にはしていない*6


http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay__100821.html


前のパラグラフで名前を出した松尾匡氏の弁明。かなり明晰な文であるとは思う。或いは「商人道」の鑑! 少し抜書き;


 「日本が成長しなかったせいで中国に追い越される」というフレーズは、全くリフレ論的ではありませんね。GDP成長率を並べて日本の成長率だけが低いことを指摘する場合も、「日本の政策当局だけが愚かな政策をしている」ということを批判する文脈ならわかりますが、成長率の高い低いを国どうしの勝ち負けとみなすような発想も全くリフレ論的ではありません。
 私はリフレを論じる文章でこんなことが書いてあることを見たことがないですけど。
 多くのリフレ派論客は、学生がこんなこと書いてリフレを論じる答案を作ったら即刻バツつけると思うけど。
 まあ、こういう言い回しは、長いことリフレ派が闘ってきた相手の、しかもかなり質の悪いトンデモ論的なやつの典型的言い回しだと思いますね。

 理由は簡単。
 リフレ論の根本的見立ては、日本経済の停滞の原因は総需要不足にあるというものです。デフレもそれが原因の悪いものだということになります。
 こんなリフレ論が闘わなければならなかった相手は、停滞の原因を供給側に求める議論です。生産性上昇が衰えているから、規制緩和で競争させて、ゾンビ企業を潰して生産性を上げようということで、「構造改革」とか言っていたわけです。アメリカはIT革命で生産性が上がって経済成長しているのに、負けてしまってくやしーとか言ってですね。この立場からすれば、生産性が上がって物価が下がるのはいいことということになります。
 そういうわけですから、リフレ論にとっては、他国の成長率が上がることは、輸出が増えて総需要が拡大するいいことです。「他の国が経済成長することはむしろ日本のマイナスになる(たとえば勝ち負けということばを使う)というイメージを喚起させる言葉遣い」は、リフレ派の前に立ちはだかったトンデモ論の典型的フレーズで、リフレ派論客は当然「率先して批判」してきたわけです。例えば野口旭さんの一連の一般向けの本の中では、しばしばこの種の批判がなされてきたと思います。

これについては、1990年代前半の米国に蔓延ったレスター・サローなどの〈国際競争力〉言説に対するクルーグマンの批判が参照されるべきか(『良い経済学 悪い経済学』)。
良い経済学 悪い経済学 (日経ビジネス人文庫)

良い経済学 悪い経済学 (日経ビジネス人文庫)

今抜書きしたのはhttp://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20100822/p1に対する応答であるが、その

まずぼくは、リフレ論がその内的論理の結果ナショナリズムに結びつくという議論をしているわけではありません。ナショナリズムは、その議論の内的論理だけでなく外形や議論のされ方によっても喚起されます。リフレ論に関して言えば、よく知りませんがマクロ経済っていうのの重要な指標のひとつにGDPってのがあって、それは普通国家単位で算出されるんですよね?さらに、日本で行われてるリフレ(金融)政策論の中心は円という日本国の通貨をどうするかという話であって、だから日銀どうする問題とかが出てくるわけですよね?このような議論の中では必然的に国家が主語になったり述語になったりするのであって、それは容易にナショナリズム的心情と結びつく。
という部分について。たしかに「容易にナショナリズム的心情と結びつく」危険はある。また、良いナショナリズムというのはあり得ないとも思っている。しかしだからといって、ナショナリズムを撲滅することは困難であろう。可能なのは(また不断にコミットしなければいけないのは)ナショナリズムをよりモデレートなものへと矯めること、また(よりプラグマティックなこととして)適切に瓦斯抜きを行うことだろう。例えば、オリンピックとかワールド・カップを通じて。経済成長の恢複というのは適切な(そしてより長続きする)瓦斯抜きとして機能し得る。逆にデフレ不況の長期化はナショナリズムをより粗野で兇暴なものとして悪化させる危険を高める。
そこで言及されているhttp://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080901/p1にも少し違和感を覚える。「先に社会の形を選択された上で、それを量的に大きく膨らましていくのがマクロ経済政策の役割だと考えます」というのはたしかに〈社会〉の方に定位した場合はそうなのだろう。しかし、個人に定位した場合はどうなのだろうか。個人にとっては可能な選択肢の拡張が重要であって、社会的に利用可能な富(GDPで表現される)はそのための資源的条件としてあるのではないかとか。これに関連して、

Sadamasato*7 2010/08/20 20:47
rnaさん、お返事ありがとうございます。ただ、こちらの真意が上手く伝わっていなかったかもしれないと思い、もう一度コメントさせていただきます。

まず、リフレ政策自体を支持できないというわけではありません。リフレ政策が実現して景気が良くなるならば、それに越したことはないと思っています。

しかし、懸念は別のところにあります。

どこかのブコメrnaさんが記されたように、ボーリングの第一ピンにリフレ政策があり、それを実行できなければほかの政策も実行が難しいという比喩だと分かりやすいかと思います。問題は、どれだけピンを倒そうと、そのピンの中に人権や再配分の向上といったピンがなく、むしろ人権や再配分を後退させるようなピン、また歴史修正主義的なピンが並んでいるのではないかという疑念があるということです。Apemanさんが仰る通り、「悪」とセットになっているのではないかという疑いがあるということです。

私は、「リフレ政策の必要性が広く認められ」ると同時に、人権の向上、再分配の必要性が広く認められる必要があると考えています。それ故、人権や再分配を嫌うリフレ派を支持することはできません。金融政策で人が死ななくても、人権問題や格差で人が死ぬようでは何の解決にもなっていませんから。

リフレ政策自体に問題はありません。むしろリフレ「政策」を支持したいとも思います。ただ、人権や再分配の必要性が広く認められていない状況では、人権や再分配を嫌うリフレ「派」は支持できません。それは、現在の命を見捨てたいからではありません。本当に人の命を守るために譲れない一線だからです。
http://d.hatena.ne.jp/rna/20100817/p2#c1282304852

それについては、寧ろ実際にリフレ政策が発動された後に政治的には正念場になるのではないかと思う。(少なくとも理論的には)そこにおいては「再分配」する原資がないという言い訳は通用しなくなっているわけで。何を如何に「再分配」するかという問題は経済の問題から政治の問題へと移行している。