神保

こんなことが気になったのは小泉の靖国参拝のおかげだろうか。
靖国神社から道を下ると、そこは神田神保町。都営新宿線だと、九段下の次である。神保町なのだが、これはかつて神保長治という旗本の屋敷があったことに由来する*1。では、その「神保」という名字の由来はどうなのだろうか。それはよくわからない。日本に神保さんという人がいることは知っているが、「神保」ということばをそれ以外で使用することってあるだろうか。
『楚辞』

楚辭―譯註 (岩波文庫 赤 1-1)

楚辭―譯註 (岩波文庫 赤 1-1)

の「九歌」の中の「東君」に、「思霊保兮賢〓*2」という句がある(岩波文庫版、p.134)。この「霊保」という言葉に、橋本循は、

詩経、小雅、楚茨の文に「神保」の語あり。毛、鄭、皆、保を訓して安となす。然るに馬端辰の「毛詩傳箋通釈」には「保は守なり依なり、神の依る所を神保となす」といふ。而して神降れば巫に憑る。霊保とは即ち神降るの後の巫をいふなり。
と註している。つまり、「神保」と「霊保」は同義であり、神が降りる依り代としての人間、すなわち霊媒を意味することになる。但し、これと「神保」という名字が関係あるのかどうかはわからない。
『楚辞』の「天問」には「八柱何當」という箇所があり(p.156)、「八柱」に註して、「地下には八柱ありて互いに相牽制するといふ」とある。「八柱」といえば、千葉県の八柱霊園なのだが、この「八柱」は8つの村が合併してできたという意味で*3、地下世界とは全く関係がなかった。
ところで、靖国神社についてだが、そもそも上野の大虐殺の責任者である村田蔵六大村益次郎)の銅像を問題にすべきだろうと不図思ったりするのだ。「ちなみに『ようこそ靖国神社へ』(近代出版社)によると、銅像大村益次郎は袴を身につけ、左手に双眼鏡を持ち、「上野の彰義隊を攻める折に、江戸城富士見櫓から北東を凝視している姿をモデルにした」とある」*4。この先を続けると、何だか荒俣宏的なノリになりそう。