田島正樹 on 『女王の教室』

最近『女王の教室』を視ている。日本では去年の今頃放映されていたものだろうか。
哲学者の田島正樹氏が『女王の教室』について書いているのを発見した*1
田島氏によれば、『女王の教室』は(細木数子*2の番組と同様に)「阿久津真矢の説教には、凡庸な人生論を超えるような内容もほとんどなければ、真実もない」にもかかわらず、「根拠の薄弱な権威者の一方的な主張に、全面的に服従したいという欲望を、視聴者の中に喚起する」という。少し前に、辻大介氏の「「過激」さ ウケる社会」というエッセイ*3を読んで、そういうところに還元してしまっていいの? という違和感を少なからず感じたのだが*4、田島氏のテクストを読んで、その違和感は少しくらいは解けたようにも思った。田島氏がラカニアンなのかどうかは知らないけれど、ここで援用されるのは、精神分析用語の「転移」。曰く、


今日我々は、権力を持つものに対して極めて容易に転移を引き起こしてしまう。一般に、幼児化した社会では、力が強い者に対して転移しやすいのだ。例えば、これ以外にも、仲間由紀恵氏主演の『ごくせん』などの「学園もの」があるが、教師が超人的暴力を発揮するものが多い。
 阿久津真矢も、いざという時になると、暴力に訴える。別段、暴力に訴える事が常に悪いなどと言うつもりはないが、非現実的なまでに、この女性たちの超人的暴力が執拗に描かれるのは何故なのか?未熟で幼児的な人間にとってほど、暴力が、暴力のみが、説得的だということではないだろうか。
 しかし、暴力は人を自由にはしない。ただ卑屈にするだけである。ある種の場合、暴力に何かをなす事ができるにしても、暴力に決して出来ない事があるとしたら、それは教育である。それは、暴力によって「教育」されたひとは、必ず以前より卑屈に、以前よりシニカルに、一言で言えば以前より不自由になってしまうからである。つまりそれは、何かを教え込む代償に、教育の可能性そのものを犠牲にしてしまうのである。
 子供たちが軍隊や権力に惹かれる時期があるが、その際、力は転移の対象となる一方、ナルシシズム的自我像ともなる。子供たちが成熟した大人に成長してゆくためには、ナルシシズム的自己を断念して、自らを象徴的(言語的)秩序の中に再構築してゆかねばならない。それは掟への臣従を通じて主体化する道である。
 ところがそこで、むき出しの力に魅せられた子供たちは、それを、象徴的なもの・規範的なものと取り違えてしまうために、自らのナルシシズムをうまく克服する事ができない。ここにフロイトの「原父」のような幻想が生じる余地が有る。つまり掟を超越したむき出しの暴力が、ナルシシズム的自己イメージを温存するための格好の隠れ蓑を提供するわけである。それゆえ、子供の時期に、暴力と権威との区別を学ぶ必要が、人間的成長のためには不可欠なのだ。それは、勝利と栄光の違い、支配と名誉の違い、力と自由の違いなどを学ぶ事で有る。教育現場における暴力の有害性は、想像的なもの(ナルシシズム)と象徴界の短絡を引き起こすという決定的な点で、子供の成長を阻害してしまう点にある。
女王の教室』はまだ5回目くらいまでしか視ていないのだが、ただの弱者/愚者/未熟者が如何にして悪人として自らを生成していく(させられていく)かという物語として読んだ。この読み方は間違っている?
そういえば、田島氏は「弱者」について、

一般に、弱い存在が互いに助け合うということは、実際には難しいのではないでしょうか?本当の弱者は、互いにいがみ合い、嫉妬に駆られて足を引っ張り合うものです。本当の強者のみが、互いに補い合う事ができるものなのです。つまり強者にとってこそ、強力な敵が可能でもあり、必要でもあるのです。弱者は、いかなる敵の存在にも耐える事ができないでしょう。
http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/50553512.html
と書いていたのだった。

*1:http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/50279386.html

*2:細木については、最近伊田広行氏が批判を書いている(http://blog.zaq.ne.jp/spisin/article/105/)。

*3:http://www.d-tsuji.com/paper/e05/index.htm

*4:辻さんのエッセイにも「細木数子」は登場する。