「うさこ」さんon Brokeback Mountain

http://blog.goo.ne.jp/fassarl/e/0b23c13ad81499a05b4f59f9068590e7


ブロークバック・マウンテン』に対する評言としては、いちばん腑に落ちたものの1つ。曰く、


話の主題は、じつのところ同性の愛情関係にはない。もちろん同性の恋人をもちながら異性の伴侶と暮らすことそのものは古典的な主題だし、シェイクスピアにだってみられる。「大自然がみずからの手で描いた女の顔をもつ わが情熱の支配者 恋しい男よ」(ソネット20)。でもこの映画の主題はむしろ“一番強く愛した相手と暮らせなかった人生、しかもその相手をあきらめきれなかった人生が、どのようなものになりうるか”にある。つまり、なんらかの障壁があって全面的には実現しなかった愛情関係の話。そうみるなら、かなり多くのひとにあてはまる主題にちがいない。人生で決定的に愛した相手とそのまま伴侶の関係を築くひとは、どちらかといえば少数派だと思えるから――もちろん、その場合にもドラマは生じうるにせよ。

そもそも愛情関係は、その相手が異性でも同性でもそれほど変わりがないようにみえる。ひとはおそらく、自分が心底愛する相手を自分の意志で選ぶことができない。それはほとんど勝手に「決まってしまう」とジロドゥーは書いた。その相手がたまたま同性であったり異人種であったりする、あるいは実の母親や義理の息子や、歴史上の人物や樹木や遺跡や宇宙人でさえあったりする。さらにはそんな相手が複数いたりする。これはもう、しかたがない。生きものは自分の罹患する病を選ぶことができない。愛その他の悪霊にとりつかれたまま生きていく。

ブロークバック・マウンテン』を〈ゲイ映画〉と呼ぶことに関しては、ちょっと違和感を抱いていた。構築主義とかの復習をするまでもなく、そもそも同性を愛したり・同性と性行為をすることと同性愛者或いはゲイとして自他によってアイデンティファイされることとは別の話である。『ブロークバック・マウンテン』の主人公たちが自らをゲイとしてアイデンティファイしているかどうかは甚だ疑問である。ただ、そこにあるのは、愛情と欲望のみであろう。偶々その対象が同性であった。ただし、そこには内的なおののきが生じる。それは、同性を愛し・性関係を求めることの非自明性とそれへの社会的差別とその(予想された)帰結が背景にあるからである。再度いうが、それと自らをゲイとしてアイデンティファイすることとは別の話である。
「うさこ」さんは、「この作品は抜きさしならなくなった二人に対して人生がすこしずつ支払いをもとめる、その長いゆるやかな破産の道程を静かに描いていく」と述べている。多分、同性を愛してしまったという出来事は、その「破産」の切迫性を増すという効果を出しているのだろうと思う。
勿論、この映画は、


 山/里


の二項対立*1を軸として、〈山〉が〈里〉に侵蝕されていく物語として、構造論的・象徴論的に解釈することも可能であろう。
ところで、エニスの妻・アルマを演じたミシェル・ウィリアムズの演技はアカデミー賞ものだと思ったのだが。

*1:「うさこ」さんは「冒頭まもなくの映像はマルボロのコマーシャルをみているようで居心地が悪かった」と述べているが。