書くことを巡って

先ずは、mulsanneさん*1という方の言葉;


オレはブログ始める前は、紙の日記なんか書いたことがなかった。

そもそもつまらない日常だし、

せいぜい後で自分が読み返すくらいしか活用方法が無いだろう、って。

自分の考えている事なんて誰も共感してくれないだろうし。


でも、ブログは、

自分とそれにまつわる物をこうやって簡単にネットに置けるようにしてくれた。

一瞬のひらめきを消えない様に残してくれた。

ネット上にこうやって文章を置いておけば何時か誰かが見てくれる。

なんかこう、自分の考えた内容が世界中で共有されている感じ。(大げさ?)


結構、人間って

その瞬間瞬間にいろんなこと考えてる生き物なのよ。

それをせっせと記録して、知らない誰かに見てもらう。

たまにツッコミ入れてもらえる。

自分でもたまに読み返してみる。

なんだ、結構思慮深くて頭つかってんじゃん自分、と再発見。

共感するところ多し。
また、koastという人*2

書く立場からみれば、詩を書くというのはものすごく不自由な作業です。なぜなら、誰かが作った部品を集めて自分の詩にすることはできないから。ひとつひとつの言葉から飾りを取り去り、バラバラの素材に戻して、そのありふれた材料で、まだ誰もいない自由な場所へ行かなければならない。

思ったことをそのまま書くとき、人はつい、すでにある言葉の組み合わせに頼ってしまいます。そうして書かれたものが自分の言葉であるのは、書いた人がそこにいる時だけ。恋の詩がそんな風に書かれるとき、そこに詩があるとすれば、それは書かれたものにではなく、書く行為そのものにあるのです。

誰かを思い、その思いのまま言葉をつづることはとても大切で、またそれ自体、詩的なことです。プライベートな世界では、だから、書かれたものが詩になっていなくてもいい。けれどもし「わたしとあなた」の特別さをその世界の外まで伝えたいなら、書かれるものは優れた詩でなければなりません。

ここで書かれていることというのは、詩文とか散文ということを超えて、〈書く〉ということ一般に纏わりついている問題である。書く、というか言葉を使うとき、その言葉の一つ一つは名も知れぬ他者からの借り物でありながら、その言葉そのものは、絶対的に自分のものでしかありえない。これは、日本語を使う、英語を使うという問題とは次元を異にする。勿論、絶対的に自分のものでしかありえない私の言葉は、そのような〈共有された〉言語(langue)と部分的な共軛性を持つであろうが、究極的に考えれば、私の言葉でしかありえない。従って、誰かがそれを理解するかどうかは、私のコントロールを超越した偶然に属する。