書き言葉へ


国語については、塾でアルバイトをしたときの経験から言うと、確かに小中学生の読み書きの力は低下していると感じた。特に作文は、まず原稿用紙のマス目を埋められない子がかなり多かった。夏休みの家族旅行の話をしてくれた子に、「じゃあ今日の作文は旅行のことを書いてみようか」ともちかけても、さっきあれだけ喋っていたのにノートに向かうと一行も書けなくなってしまう、というようなことも幾度もあった。もっとも、何かを書かせるという行為そのものがデリカシーに欠けるし、今なら私も作文を先生に見せるなんてことは絶対イヤだから、そういう問題で引っかかる子も当然いたとは思う。でも、もっと無機的なワークブックにしても、選択問題しか解答できず、記述問題は正誤以前に一字も書けない子がかなり多いというのは、講師を始めるまで予想していなかった。(もっとも、私が小学生の頃にしてもそんなものだったのかもしれないが…)
http://d.hatena.ne.jp/baatmui/20090215#1234706143
実際に、「小中学生の読み書きの力は低下している」かどうかはわからない。また、「恐らく教室で小中学生に国語を教える先生が頭を悩ましているのは、「〈読まれるべき言葉〉を読む国民を育てる」どころか、書き言葉以前に〈話し言葉〉をそのまま書き表す段階に到達させるのがいかに困難かという問題ではないだろうか」というけど、「書き言葉」は音をそのまま文字に置き換えたものではないだろう。ベタに考えて、「〈話し言葉〉をそのまま書き表」したら、えーとそのーばかりになってしまうぞ。誰かが書き言葉にネイティヴなしと言ったとは思うのだが、書き言葉には話し言葉からは飛躍といってもいいような切断があり、linguistically competentな大人はそのリープを忘却してしまったがために、話し言葉と書き言葉の谷間に佇む子どもを理解しづらくなっているということはあると思う。さらには、自分だって書くときには「〈話し言葉〉をそのまま書き表す」なんてしていないのに、普段話してる通りに書けばいいんだからとか甘言を弄する。そうはいかないからみんな悩むのに。勿論、悪いのは(今や言語学者どころか一般の言語ユーザーまでをも蝕んでいる)〈言文一致〉というイデオロギーだとはいえるのだが。
書くことの困難はひとつには、それが感じるを感じるとか味わうを味わうに似たメタ的な所作であるということがある。少し視点を変えてみる。(ノーマルな状況では)話し言葉というのは誰かが自分の発話を現に聴いていることを前提に(或いはそれを期待して)行われる。また、その発話自体もその場にいる誰かの発話に対する応答として為される。しかし、そのようなアクチュアルな相互行為的場面から一旦身を退かなければ書くことはできない。書くことは孤立すること。勿論、書くことにおいてもそのような応答の構造はある。書くことは外部の出来事や他の言説に触発されて始まるものだし、書かれたものは誰かに読まれることを目的としている。しかし、書くことにおいては傍らにアクチュアルな他者はおらず、私は応答の構造を想像的に構築していかなければならない。書くことにおいては、「〈話し言葉〉をそのまま」のための下部構造がそもそもないのだ。
私も作文教育というのは受けてきたのだが、そのようなことに配慮した指導というのはなかったといっていい*1。ところで、論文を書く場合、「〈話し言葉〉をそのまま」というのは無理で、先ず単語を羅列した自分用のレジュメを作って、矢印を結びつけたりとかいうことをする。そういうことは、作文であっても、特にビギナーの場合は必要なんじゃないだろうか。「〈話し言葉〉をそのまま書き表す」ことを強いるのではなく、先ずイメージ或いは概念(つまり、単語であり文字だ)を羅列して、それらをひっつけたり切り離したりシャッフルしたりして戯れること。そのようにして、(話し言葉のトランスクリプションではない)書き言葉が生成するのではないか*2

*1:作文教育については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060227/1141008207http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071203/1196654410も参照のこと。

*2:これは一部の人が注目している「フィンランド方式」に近いのかも知れない。See http://d.hatena.ne.jp/atutake/20060213/1139782428 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060301/1141211251