靖国を巡って――吉田望

A級戦犯合祀は自らやめるべきである(4月10日改)」
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浅田彰田中康夫対談*1にて知る。吉田氏は『戦艦大和ノ最期』の著者・吉田満の子息。とにかく労作といえよう。
目次は、


1. 靖国神社の起源
2. 誰が靖国神社に祀られているのか?
3. A級戦犯認定への法プロセス
4. A級戦犯とは誰か?
5. なぜA級戦犯が合祀されることになったのか?
6. A級戦犯合祀をすすめた「靖国イデオロギー
7. A級戦犯合祀がもたらした代償
8. さいごに 私の個人的体験
である。
これを読むと、何故1980年代以降、靖国な人たちが首相の参拝に拘り始めたのかがわかる。
それよりも、私にとって興味深かったのは、

もともとは天皇直属の部下を祀るものであったのが、戦後その範囲は、国民の期待にこたえて広がっていきます。合祀者の中には、軍の命令でその場を離れることができず亡くなった人も含まれるようになりました。
 例えば、沖縄戦で戦没した「ひめゆり部隊」「白梅部隊」など7女学校部隊の女子学生や、沖縄から疎開先の鹿児島に向かう途中に撃沈され死亡した「対馬丸」の小学生や従軍看護婦、それに敗戦直後の1945(昭和20)年8月20日、進攻してきたソ連軍の動向を日本に打電し続け、自決殉職した樺太(現サハリン)真岡(まおか)の女子電話交換手らの陸軍軍属(軍隊における非軍人)も含まれます。
 旧陸海軍では、軍に所属する文官と文官待遇者のほか、技師・給仕も1955年から1960年代にかけて合祀の対象となりました。(その他満州開拓団員や防空活動従事中の警防団員らも。現在女性祭神は5万7,000余柱)。
という部分か。靖国問題を語る場合、単純に上からの視点を考慮するのみでは不十分である。勿論、お上による、個人の国家への包摂の仕掛けとして靖国神社があるというのは間違っているわけではない。しかし、同時に国民の側の、国家に包摂されたいという願望、或いは死んだ身内を英霊にしたいという願望を無視することはできない。寧ろ、戦後、大日本帝国の崩壊=民主化を背景にして、英霊(合祀対象)の範囲は拡大した。これも一種の民主化である。また、「A級戦犯合祀」もこの拡大(民主化)の波に乗って行われたという解釈も可能である。
あとは、戦後「靖国」を巡る歴史学者平泉澄の影響力への言及。「A級戦犯合祀」を強行した松平永芳宮司を巡って;

松平の強烈な天皇観は、平泉澄東大教授からの影響が大きいといわれています。それは単なる天皇崇拝ではなく「現天皇天皇制本来の伝統にてらし過ちを犯したと判断されるべきときには、死をもって諫言すべきだ」という思想でした。平泉本人は、この奥義を人に伝えるときには、極めて慎重であり、信頼関係のある人間に一対一でしか伝えなかったとされていますが、それは奥義というものの本質であり、影響力を生じました。人間魚雷「回天」の創始者・黒木博司海軍少佐、昭和天皇終戦の「聖断」をくだしたときに、クーデターないし叛乱によって徹底抗戦を貫こうとした陸軍中堅将校団の多くは、平泉史観の直系でした。
平泉澄について、もう少し纏まった引用をしておく;

平泉は昭和23年に公職追放の対象となった後は、泉寺白山神社宮司となり、歴史の研究・著述と後進の指導に専念する傍ら、銀座に研究室を開設し昭和59年に没するまで右派の国史学者・イデオローグとして影響力を持ち続けました。断っておきますが、これほどの影響力を持ちえたということは、彼の思想は別として、知性、信念、人格、清新さ、教養など格別な人物だったということです。彼は皇道派、統制派などとかく分裂しがちな日本の右翼思想のバランスをとる思想的なシンボルであり、また戦時中は従軍司祭としての役割を果たしました。同門の人々の多くは戦後、保安隊、自衛隊、警察、国史家、神道などに従事し、思想的な共同体を保ってきました。
 しかしその皇国思想について批判をすれば、自家撞着的であり、外の社会に対して閉じられた価値観を追求し、正統の核をもたず、つねにあいまいで宗教的・政治的な色彩を持ちます。天皇を守り立てるように装いつつ、テロを辞さず、天皇をも制御できる政治権力をわが身にまとおうという隠された思想的権力欲が、背景にあると思います。つまり、天皇主権説によって国体をたてに「国家機構内部における軍や官僚的要素の絶対的地位を確保しよう」とする心理です。

平泉の信じた皇国思想の原型は、江戸中期の朱子学山崎闇斎の興した、日本神道朱子学を結びつけた「崎門学派」にあります。この皇国思想は、明治天皇を擁(よう)して維新回天(いしんかいてん=明治革命)を成し遂げた長州の過激な攘夷イデオロギーを作り出しました。それは明治革命を起こした原動力となった思想です。日本の歴史の正統性として、天皇制が途切れることなく継続していること、外国に占領されていないこと、の二点を発見し、「中つ国(正しい国)は(中国ではなく)日本である」と主張し、尊皇攘夷の強烈な気風をつくり、日本を革命に導きました。しかし明治以降の近代化への成功のなかでその思想は、自らを変質させ清新さを失いなっていきます。日中戦争日露戦争で、膨張しながら旧陸軍組織の皇道派へ、そして姿を変えながら今の靖国イデオロギーへと、続いたように思います。
注目すべきことは、このイデオロギーそのものが、思想的な優越をめぐって中国との対立を作り出し、敗戦と東京裁判を否定する深層心理となっていることです。
因みに、「崎門学派」は山崎闇斎儒学者としての側面を強調した場合の呼び方であり、神道説としては垂加神道の方が妥当だろうか。神道説としては、中世伊勢神道をベースにしたものであり、心理主義というか「ココロ主義」(姜尚中)の色彩が強い。神話解釈としては、『易経』を牽強附会した感が強い。これは本居宣長国学の主要な批判対象であったといってもいい。なお、会津の藩祖である保科正之山崎闇斎の高弟であり、戊辰戦争にて朝敵の汚名を被った会津藩も、闇斎の学統、垂加神道を受け継いでいたということは記しておく。