最首悟インタヴュー@『SIGHT』

承前*1

『SIGHT』に最首悟氏へのインタヴューが掲載されている(pp.14-21)。インタヴュワーは編集長の渋谷陽一ではなくて、洪弘基という人。所謂団塊ジュニア−−「実は私の父親が全共闘世代ど真ん中の人間なんですけど」(p.21)。ここでは最首さん、かなりぶっちゃけてますね。文章を読む限りでは、最首さんという人は凄く生真面目な人という印象なのだが。ここでの鍵言葉は全共闘=ヒッキー、ということか。勿論、


日大闘争にしても東大闘争にしても、全国学園闘争っていうのは、やはり科学技術推進のもとに産軍学共同体的な国家を作っていくことに対する若者の反応なわけ。つまり資本主義市場経済の中で科学技術は途方もなく暴走するだろうと。当時は核の脅威もあれば、ベトナム戦争枯葉剤もあるでしょ? そういうものに対する学生のなかば無意識的な反抗なんだよ(p.15)
ということなのだけれど、あくまでも「なかば無意識的な反抗」にすぎない。また、近代日本に於いては、

(前略)学問の動機とは、国家的な要請における立身出世主義なの。勉強っていうのは努力することであり、労働することだった。たとえば、東大生っていうのはまずみんな汗水たらして大学に入ってる。時間内に決められた仕事を、ちゃんとルールに従ってやり遂げるだけなんだ。ドリル練習という労働をしてるわけ。で、学生たちの中にはその労働がイヤだっていう気持ちが非常にあって、実はこれが西欧近代市民社会に対する反逆なんだね(p.16)。
ここから、全共闘=ヒッキーという論が展開される。「労働」=「勉強」への「反抗」としての「閉じ籠もること」−−「学生たちはバリケード作って中で寝転がってギター弾いてマンガ読んでたんだから」(ibid.)。また、

現代の引き籠もりとか異常犯罪者に対するとんでもないっていう感覚が、当時全共闘に向けられてたんだから。僕だって狂人扱いされたしね。ところがその狂人が引き籠もり型の狂人なの。破壊行動を繰り返す、テロ行動へ進んでいくていうふうにはならない。やっぱりテロをするには、神聖な目的がなきゃできないよね、命を捨てていくんだから。その点、全共闘はまったくだらしがない(ibid.)。
最首さんは1936年生まれで、大学闘争には助手として参戦した方なので、団塊の世代ではない。
その後、「国家的な要請における立身出世主義」は復活したが、既に大学は「引き籠もり」の場所ではなくなった。