薄ら寒い日曜日、散歩がてら近所のブック・オフへ。しかし、買いたいと思った本はそれほどなかった*1。結局買ったのは、
寺谷弘壬『国際社会学 世界の読み方』、八千代出版、1996
清水義夫『記号論理学』、東京大学出版会、1984
アン・リー『飲食男女』(南條竹則監訳)、新潮社、1995
最首悟『星子が居る 言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』、世織書房、1998
寺谷さんのは社会学の教科書。但し、「国際」とタイトルに謳っているように、どの章でも日本に偏ることのない記述がなされている。寺谷さんは旧蘇聯・露西亜の専門家なので、露西亜関係の事例が多い。社会学の教科書としては、こういう記述の仕方は望ましいと思う。〈日本社会学〉ではなくて、あくまでも〈社会学〉なのだから。
『飲食男女』は、李安の同名の映画のノヴェライゼーション。といっても、台湾で既に出版されているノヴェライゼーションの翻訳ではなく、オリジナルのシナリオを参照しつつ、南條さんが新たに書き下ろしたもの。その意味では、南條さんが李安の映画をベースにして書いた小説といってもいい。この本に収録された、鈴木布美子さんの「解説」からちょっと引用;
彼にとっての理想のフィルムとは、観客が何の違和感も感じずにドラマ内の世界に同化できる作品なのである。もちろんそれは、優れた娯楽映画の大原則でもある。娯楽映画では胸のすくようなヒーローの活躍やロマンティックな恋愛の描写といった説話的な仕掛けによって、いかに観客の意識を作品に同化させるかがポイントとなる。いっぽうアン・リーは、見るからに美味しそうな料理を一種の誘惑装置として利用する。ちょうどポルノグラフィーがセックスの映像によって現実の性行為に近い興奮を観客に与えようとするのと同じように、彼は料理の映像によって観客からリアルな感覚的興味を呼び覚まそうとするのだ(p.179)。
そういえば、上海からの機内で久しぶりに南條氏の文章を読んだ*2。太湖の畔にある「南潯」の紀行。
ヨーロッパの映画監督にたとえるなら、彼はジャン=リュック・ゴダールやヴィム・ヴェンダースのように映画を通じて「映画とは何か」という命題を問いつめていく内省的なシネアストではなく、エットーレ・スコラのように職人的な技術で家族や友情といった普遍的テーマを巧みに描く監督に近いと言えるかもしれない(p.180)。
最首さんの本は1981年以来書き綴ってきた文章を集めたもので、400頁を超える大著。或る意味で、最首さんの思考の集大成といえるのかな。
どれを中国に持ち帰るのかだけれど、『飲食男女』は決まりだな。何しろレシピ付きですから。