「友愛」(メモ)

批評空間 (第3期第4号) アナーキズムと右翼

批評空間 (第3期第4号) アナーキズムと右翼

絓秀実、福田和也柄谷行人アナーキズムと右翼」(『批評空間』III-4、2002、pp.6-28)*1から;


柄谷 プルードンは、ルソーの社会契約はインチキだと言っている。あれは本当の双務的な契約じゃない、強制されたことをあたかも契約したように言い直しているだけだ、と。プルードンが言うアソシエーションというのは、端的に言うと、そこに入ったり辞めたりすることが自由にできるものでないといけないわけですね。「今日、辞めさせていただきます」といった具合に。そういう国家はない。もちろん、辞めることはできるかもしれないけど、簡単に入れないね(笑)。国家はそのような意味での「社会契約」ではありえない。プルードンはアソシエーションという言葉も紛らわしいと言って、最後はフェデレーションという言い方をしています。アソシエーションから、集権的な考えも出てくることが可能です。ついでに言うと、フランス革命の時、「自由・平等・友愛」というスローガンがあったけれども、最後の「友愛」も両義的ですね。アソシエーショニズムにおいて契約しあった個人の間の友愛になるか、所与としての民族的な友愛になるか。
福田 「友愛」はフランス語だとフラテルニテですね。どちらかというと、これは軍人同士の感情に近い。プラトンの『饗宴』の中でソクラテスが言う「戦場に美少年と一緒に行って戦う」みたいな。どちらというと同志愛。
柄谷 ヘーゲルの場合、「友愛」がネーションになると考えていた。市民社会(自由)と国家(平等)だけでは足りない何か、いわば感情的な共同性の基礎となるものとして、ネーション(友愛)がある。この三つをうまく弁証法的に構成したのが『法権利の哲学』ですね。言い換えれば、彼は、資本制=ネーション・ステートの相互依存的な形態を肯定的にとらえたわけですね*2。(pp.18-19)
饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (岩波文庫)

また、「友愛」(「フラテルニテ」)については、「ミッテラン政権の頃から、フランス国民同士というより、とくに移民をはじめとするマイノリティの他者たちとの関係を重点に置いて、ジェンダー的に中立な「ソリダリテ」(連帯)という言葉を使うようになってきたわけでしょう」(柄谷行人浅田彰西谷修高橋哲哉「責任と主体をめぐって」『批評空間』II-13、1997、p.39)という浅田彰の発言も参照のこと。
批評空間 (第2期第13号)

批評空間 (第2期第13号)

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100325/1269541570 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100326/1269582083

*2:この柄谷発言に関しては、『世界共和国へ』p.170ffも参照のこと。See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070502/1178032169

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)