「健康至上主義イデオロギー」といえば

岸さん*1は書いている;


とりあえずこないだの研究会の話から始める。当日配られたレジメに、こんなのがあった。ネタは医療社会学、報告者は解放系の人。

こんなストーリー。薬害エイズに関してわりと大規模な社会学的調査がおこなわれた。そこで、ある社会学者が「健康至上主義」みたいな概念を出して、それが取り入れられて、この概念にそって報告書がまとめられた。でも、この社会学者による報告書は、医療の側からも、当事者の側からもこてんぱんに叩かれた。

健康至上主義(うろ覚え。言葉遣いは違ってたかもしらん)っていうのは、こういうことだ。医者も当事者(血友病患者)もその家族も、病気を治すことに必死になってた。それは、病気は悪い、健康は良いというイデオロギー(!)の影響だ(いや、俺が言うたんちゃうで)。このイデオロギーのせいで、ヤバい血液製剤に対するチェック機能が働かなかった。薬害が発覚する前にリスクが高いことはわかってたはずなのに、医者(と家族)の「病気を治す」という大義名分のために、そういう危惧はかき消されてしまった。

こんな報告書読んだら、そら誰でも怒るわな。「『治すな』言うんか!」ってな。

医者の権力が異常に強すぎるのも確かだし、企業の利害も大きく関わっていたことも確かだし、家族が本当に当事者のことを考えていたのかどうかっていうことさえも、議論の余地があるかもしれない。

しかしそれを、「焦って治すのが悪い」みたいに言われて「はいそうですか」って世の中の人が納得するほど社会学者は偉くないんだよ。

さてここまでが長い前置き。

で、その報告者の解放系の人は、その調査チームに入ってたみたいなんだけど、この一連の経過を踏まえて、安易な枠組みを作った社会学者たちを内部から批判する小論を書いたわけですよ。

そのロジックはこう。(自分以外の)社会学者たちは、「大きな枠組み」で当事者たちの「生きられたリアリティ」を縮減してしまった。これは一種の理論的暴力だ、と。

使われたネタは会話分析(だったと思うけど、手記か何かだったかもしれない。レジメどっかいった)。そこには、医者の言葉を疑って聞き返す当事者だか家族だかの言葉がのっていた。

この、ほんの一言か二言医者に言い返した言葉を引用して、報告者は、「医者が当事者に『健康至上主義イデオロギー』を押し付けていたというのは間違い。生き生きした生きられた生のリアリティはこんなにたくましく現実を生きている」(意訳)と結論付けていた。「にもかかわらず、自分以外の社会学者は、単純な枠組みを勝手に当事者に押し付けてしまった。これが今回モメた原因」とまでは言ってなかったけど、まあだいたいそういう話だと理解して間違いじゃないと思う。

で、俺は(にこやかに)「それはちゃうやろ」と発言しました。(丁寧に)「単にその『健康なんちゃら主義』っていう枠組みが間違っていたっていうことじゃないですか。それとも『あらゆる枠組みすべてダメ』っていうことですか?」って質問したら、まあ予想通りというか、あらゆる枠組みすべてダメ、ということだった。理由は、当事者の生きられた生の生き生きした生活史の語りが抑圧されるからだそうで。

読んで、一瞬どきっとしたぜ。私も「あらゆる枠組みすべてダメ」ということを事実上言っている論文を書いたことがあるからだ。但し、にも拘わらず〈不可避〉だということは言っている。「生きられたリアリティ」とはいっても、アルフレートの叔父貴に従えば、脆弱であるにせよ、強固であるにせよ、そのような「リアリティ」は常に類型化されて、つまり何らかの「枠組み」に嵌められて、経験されるわけだけれど。私の意見としては、「枠組み」からの自由というのは、失敗すること、やり損ねてしまうこと、〈役割期待〉を失望させることの裡にあるのではないかとは思う*2
さて、岸さんとともに「解放系EM 」への批判に加わるのでもなく、逆にそれを弁護するのでもない。ただ、「健康至上主義イデオロギー」という言葉があったので、それに反応するというか、二の句を継ぐというか。読み始めた市村弘正杉田敦『社会の喪失』に収録された市村さんの『薬に病む−−クロロキン網膜症』という映画を巡っての文章には「健康イデオロギーの強迫」という言葉が使われている(p.8)。その前提として、「つくらないこと、生みださないこと、差し控えることは、この社会では文字どおり否定的な「無為」以外のものではない」ということがあるという(ibid.)。その「イデオロギー」は「健康のための「行為」へと私たちを駆りたててやまない」が*3、「そのための手立ては専門家集団に独占されている」(pp.8-9)*4。また、

人間を対象とみなし、それに向けて薬品を大量に投下するというこの行動様式は、まぎれもなくこの世紀のものだ。それは社会のなかに、あるいは人間のあいだに、隙間や余白を残すことを許容しない思考様式によって促されている。総動員の思考である。そのような空隙は患部とみなされ、根絶されなければならない。この社会的患部の発想はそのまま身体の患部に向けられるだろう。それは治癒する肉体でも病気とつきあう体でもなく、根治されるべき対象となる。根絶といい根治といい、その余すところなき「根こそぎ」の発想は皆殺しの思想といっていい。全体主義的思考そのものである。このような思考が個々人を襲い、その身体に投下される。身体は放置されることはないのだ(p.11)。
とも書かれている。
ダイアローグの方では、この「健康イデオロギー」はフーコーのいう「生権力」の話に結びつけられたりする(p.22ff.)。市村さんによれば、「皆殺しの思想」というときに直接のヒントとなったのは、『沈黙の春』のレイチェル・カーソンであったという(p.28)。この話は興味深いのだが、別の機会ということにする*5
最後に、脈絡なく岸さんのテクストに戻る。「解放系EMの人はもうアホみたいに実証主義を批判するけど、例えば実証主義都市社会学を「同じ土俵で」批判するのって、EMの仕事とちゃうんちゃう?」−−(私はEM者ではないけれど)〈小説家〉と〈批評家〉の関係っていうことでどうでしょうか。

*1:http://sociologbook.net/sb.cgi?eid=229

*2:田崎英明氏もそのようなことを言っていたし、私が直接に影響を受けたのは高橋悠治尊師の言葉である。

*3:杉田さん曰く、「なぜ日本が薬物体制になってしまうかといえば、それは医者がもうけたいからとか、製薬会社がもうけたいからということももちろんありますが、それに加えて、患者が過剰なまでに薬を求めている、ということがあります」(p.32)。

*4:ここでは、「行為」は「無為」と対立している。

*5:一言だけ述べると、市村さんの文章のタイトルは「社会的失明の時代」となっている。これは勿論多義的なのだけれど、とてもやばい側面を有していることだけはたしかだ。つまり、市村さんが批判する「「根こそぎ」の発想」のさらに根幹の部分を共有してしまっているようにも読めるのだ。