「わかる」についてのメモ(堀江敏幸『河岸忘日抄』)

河岸忘日抄 (新潮文庫)

河岸忘日抄 (新潮文庫)

また堀江敏幸『河岸忘日抄』*1からの引用;

他人の発言にたいして「わかる」と意思表示をするのは、ある意味で究極の覚悟を必要とする行為であり、まちがっても寛容さのあらわれではない。言いっぱなしで済ませられれば、こんなに簡単な話はないのだ。彼自身、それを何度繰り返し胸に言い聞かせてきたことだろう。そこにある青くささも彼は否定していない。しかし寛容さの表面に浮かんだやさしさは、ただの皮膜にすぎないものである。ほんとうの寛容さはつねに戦闘状態にあるはずで、寛容にする側もされる側も、どちらもぞんぶんに傷つく。だからこそ、程度のほどはべつにして、わかる、わからないを口にしたとき、自分を棚にあげない勇気の有無が問われるのだ。無意識の判断だなんて、恰好のいい言い抜けにすぎない。判断としての無意識は、意識的な鍛錬ののちに生まれてくる反応だからである。彼にとって、それはまことに自然な解釈なのだが、誰にとっても首肯できるものではないらしかった。多少は理解していながら、みずからを棚にあげるのを恐れてわからないふりをする者にたいして、未熟な彼はどうしても寛容になれなかった。青い、若いの一語で済ますことのできた猶予の時代はすでに遠い。高邁な理想をかかげているひとの、その高邁さに感銘を受けつつも、そこに生じた日常とのずれは、彼にとってうわべの矛盾ではなく、本質的な矛盾だった。(後略)(pp.334-335)
これは、次の「枕木さん」の「手紙」の一節(とはいっても、引用されているのではなく、「彼」によって引き取られ、語られている。「きみ」とは「彼」のこと)を受けている;

(前略)あなたの言いたいことはわかる、彼の言わんとすることはわかる、そんな節まわしに出てくるときの「わかる」の一語が、ぼくにはいつも「わからない」のですけれど、きみはそれをうまく避けてくれます。「わかる」と「わからない」で世界を半分ずつ分けていくと、ひとはみな不健康になる。他人の話をわかる、わからないの二分法で終わったことにしたり、たしかにわかるような気もするけれど、なにかが足りない、などと判定するのは、それが言いっぱなしでなく、自分に返ってくるしかたでなければ、なんの糧にもなりませんからね。(p.334)

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060428/1146248997