神社はお墓ではないだろう

 『朝日新聞』の記事なり;


靖国参拝することが戦没者追悼」安倍官房長官

2006年02月02日22時24分

 安倍官房長官は2日の参院予算委員会で、靖国神社の位置づけについて「国のために殉じた方々のために手を合わせるのは当然のことだ。靖国神社にお参りすることが、(戦没者の)冥福をお祈りすることになる」と述べた。その根拠として「1年間に数百万人が靖国神社に参拝する。ほとんどの遺族が参拝する。このことから見ても至極当然のことではないか」と説明した。小川敏夫議員(民主)の質問に答えた。

 また、安倍長官は、「戦前の日本を軍国主義と思うか」との質問に対し、「総理大臣や陸軍大臣が現役の軍人であることをもって軍国主義とするなら、軍国主義になるのかと思う」と述べた。

 また、麻生外相は靖国参拝に関し「天皇陛下の参拝が一番」と語った自身の発言について、「天皇陛下もしくは政府の代表者が、隣国に気兼ねすることなく先祖の方々に参れるような状況を作り出すことが最も肝心ではないか、という問題提起だ。私人とか公人にこだわらなければいけないことが、そもそも問題だ」と述べた。
http://www.asahi.com/politics/update/0202/010.html

靖国神社が戦歿者の「追悼」のための施設ではなく、あくまでも〈顕彰〉のための施設であることは、高橋哲哉靖国問題』などを読めば明らかなのだが、それはさておいて、そもそも「神社」というところは「冥福をお祈りする」場所なのだろうか。「冥福をお祈りする」場所というのは、ふつうは墓場であり、当の死者の死の現場であろう。例えば、JR西日本脱線事故の現場に立って犠牲者の「冥福をお祈りする」というのは自然である。しかし、私たちは神社に死者の「冥福をお祈りする」ために行くのではない。神田明神にお参りするのも平将門の「冥福をお祈りする」ためではないし、その近くの湯島天神へ行くのも菅原道真の「冥福をお祈りする」ためではない。明治神宮に参拝するのも明治天皇の「冥福をお祈りする」ためではない。現世利益的な祈願のためだったり、或いはただ敬神の気持ちからだったりするかも知れないが、「冥福をお祈りする」ためということはない。「国のために殉じた方々のために手を合わせるのは当然のことだ」というなら、戦歿者のお墓ひとつひとつにお参りすればいいのだということになる。
 ところで、麻生太郎の発言については、記事からは全く意味(vouloir-dire)を読み取ることができない。麻生が馬鹿なのか、それとも記事を書いた人の要約が駄目なのか、それとも私の読解力がないのか。