「能力」――相互行為的還元

承前*1

http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20080614#p1


これは「能力」というものの相互行為論的還元を試みているといえるだろう。全体的に共感するのだが、2つくらいの注意が必要であると思う。先ず、「能力」は相互行為において生成し、相互に分有されるとしても、相互行為の効果というか痕跡はひとりひとりの裡に蓄積される。佛教用語でいえば、業(karma)と言い換えることも可能であろう。この相互行為の痕跡としての業が私の個性を基礎付けることになり、そこにおいて責任なるものも存立する。また、「個人のなかに」ない「能力」は常に(それ自体が時として法人格を持つ主体である)集団によって没収されたり・搾取されたりする危険に晒されている。そこにおいては、やはり「個人のなか」の「能力」を擁護せざるを得ないだろう。
また、「「能力」が「ひと と ひとのあいだに わかちもたれたもの」になる」状態――これはアレント的な意味における権力(power)であるともいえるだろう。
そこで参照されているhttp://cyborg.relove.org/broadcast/good-bye_ability.html――「圧倒的な神の存在」を信じ得ぬ私はやはり仏教徒なのだと思う。
さて、以前、徐京植ディアスポラ紀行』という本を巡って、


著者は、レヴィ=ストロースいうところの「「真正」な社会」の水準を視野から落としてしまっているのである。著者は「日本語」が「母語」であるという。正確に言えば、〈国語〉としての「日本語」というのは、文法学者による体系化や規範化、それに基づいたフォーマルな教育ということを抜きには存立し得ない。つまり、〈国語〉としての「日本語」はそもそも学校制度とか文部科学省、とどのつまりは日本国という国民国家を背負った言語なのである。著者が採用する区別では、「母語」ではなく「母国語」の水準に位置する。それに対して、「母語」は(どのような社会においても)「母国語」の外において、さらには「母国語」以前に習得される言語である。また、「「真正」な社会」の水準において(主として〈まねぶ〉という仕方で)習得される言語である。それは、日本語だとか朝鮮語だとか英語といったフォーマル化された、国民国家の言葉には収まることのない余剰若しくは不足を抱えている筈なのである。それは究極的には(他者との相互行為の痕跡としての「経験のストック」としてではあるが)私という身体−精神的な存在へと還元される筈であり、差し当たっては、地域とか階級といった社会的ロケーションが刻印された特定の訛り或いは方言として現象する筈だ。決して、それは抽象的な「日本語」ではない。「母語」は(というよりも現実に話され・書かれる言語は常に/既にそうだと思うのだが)「母国語」以前に留まるとともに、複数の〈国語〉を横断した仕方で、つまりクレオール的な仕方で現象する可能性を秘めている。興味深いことに、著者はこのクレオールという言語や文化の在り方に対して、否定的な(少なくても肯定的ではない)感情を持っているようなのである。(原文のミスタイプを修正)
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050809
と書いていたことを思い出した。