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 12月12日、静安寺からバスに乗り、浦東国際機場へ。
 それにしても、何処の国でもそうかもしれないが、空港の物価というのは、それ以外の市井と比べて、物価がめちゃ高いものだろうか。浦東の場合、どう見ても物価は市内の2倍している。青島ビールとサンドウィッチ(三明治)、市内のちょっとしたレストランで、かなりけっこうな食事のできる金額だ。考えてみれば、空港の食事で美味しくて値段もリーズナブルだったのは、福岡空港のうどんくらいしか記憶にない。
 日本に帰って、『ニュース23』を視るが、筑紫哲也が上海からライヴで喋っているじゃないですか。そういえば、エンディング・テーマも9月と変わっていないぞ。
 13日、六本木ヒルズの「寅」で、まぐろ丼を食べる。世間一般の評判は知らないが、ここはたしか去年の3月に来たことがあって、たしかそのときはまぐろではなく鯛飯を食べたのだが、それ以来六本木に行く用がある度にまた来てみたいなと思ってはいたのだが、いつも機会は逸していた。周囲の人間が思っているのとは相反して、私の舌はかなり保守的であるらしい(自己推測)。今回、まぐろ丼を食べて、印象に残ったのは、まぐろの味というよりも山葵の味と香りと鼻への刺戟。そういえば、私の舌は保守的であるばかりであるだけでなく、かなりのslow learnerでもある。私が山葵の美味しさを知ったのは既に三十路に入ってからであり、20代の半ば頃までは山葵というのは受け付けなかった。辛いのがいやなのではなく、鼻を近づけると、吐き気まで催していたのだ。それはまっとうな山葵を知らず、安物の粉山葵しか知らなかったということもあるかもしれないが、いい大人が〈さびぬき〉というのも恥ずかしいので、寿司も食べなかった。美味しさを知るのに長い時間がかかったというものには、他に、椎茸、大根、牛蒡等々があるのだが、いまだに玉葱はよく水に晒した生のものか、或いはカリカリにフライしたものしか食べられない。特に、牛丼に入っているような生煮えのような玉葱は絶対に食べられない。何というか、あの中途半端な甘さを通過させることに、私の喉は抵抗する。何が〈ネギダク〉だ!
 一時帰国の目的の1つは、ケイト・ブッシュAerialを買うことだった。コピー・コントロールの問題もあり、できればアメリカ盤が欲しかったのだが、店にはアメリカ盤はなく、EU盤を買う。ジャケット・デザインがこれまでのケイトのディスクとは全く雰囲気が違う。ジャケットの模様はオシロスコープの波形、すなわち音声であるということなのだが、一瞬、黄色い背景とも相俟って、夕陽に照らされた多島海かなとも思った。中身は勿論お楽しみなのだが、まだ開封していない。お楽しみは上海に帰ってからにとっておこう。幾つか音楽雑誌を立ち読みする。『ロッキング・オン』では松村雄策と小田島久恵がケイトについての記事を書いている。松村さんの文章というのは、その文を藝として娯しむべきものなのだから、まあどうでもいいとして、小田島さんの文章では、ケイトは上流階級の出身で、同時代のパンクとは対極にあった云々。ケイトが語られるときに、〈上流階級〉とか〈お嬢様〉というのは既にクリシェに属しており、まあどうでもいいのだが、短い文章とはいえ、少し安易なんじゃないか。『ミュージック・マガジン』では、筆者が誰なのかは忘れたが、「狂気」がなくなったので物足りないといったような批評が。
 この日、3冊小説を買う。

  小川洋子博士の愛した数式新潮文庫
  小川洋子『貴婦人Aの蘇生』朝日文庫
  星野智幸『目覚めよと人魚は歌う』新潮文庫


 この日、読了した本;

 宇佐見圭司『線の肖像 現代美術の地平から』小沢書店、1980
 ギデンズ『モダニティと自己アイデンティティ』ハーベスト社

 9月以来、本を読む量ははっきり言って激減している。その数としては多くない読書では、総じて、近代(modernity)というものの復習である。勿論、上に挙げた2冊もそれに関わっている。これについては、後日また言及するときもあろう。