パースその他

 7月8日、パース『連続性の哲学』(伊藤邦武編訳、岩波文庫、2001)を読了する。
 正直言って、この本を読み通すのはしんどかった。勿論、数学の話、物理学の話が沢山出てくるということはある。しかしそれだけではない。パースが構築を目指す「連続性の哲学」というのは、実は(可能世界も含めた)全宇宙を包括するような壮大な形而上学的な体系であるらしい。例えば、


 ゼロ集合は、むきだしで抽象的な、未発達の可能性である。一方、連続体は、具体的で発達しきった可能性である。全宇宙は真であり実在的であるような可能性の集まりであり、それらの宇宙は全体としてひとつの連続体をなしていて、われわれのこの現実宇宙は、そのなかに非連続的な印を付けた一個の宇宙であるに過ぎない(「関係項の論理学」、p.122)。

 この[「さまざまな連続性がより一般的な連続性、より高次の連続性から派生したものだ」という]観点からすれば、現実に存在する宇宙はそのすべての恣意的な第二性を含めて、もろもろのイデアからなる世界、ひとつのプラトン的な世界からの派生物であり、それが恣意的に確定的になった所産であると見られなければならない(「連続性の論理」、p.255)。

 原子に傾きを認めるわたしの立場は、唯物論者たちの立場と正確に同じではない。彼らはただ、死んだ物質に少量の意識性が一服投与されていると考えたに過ぎない。これにたいしてわたしが主張するのは、存在するものはすべて、第一に感情であり、第二に努力であり、第三に習慣である、ということである(「連続性の論理」、pp.261-262)。
私が「しんどかった」というのは、(私自身の身体的・精神的な疲労のせいかもしれないが)彼の体系、彼の宇宙に入り込みそこねたということに起因するのかも知れない。パースは多分、古代的な意味における哲学者なのだろう。ツアー旅行で、いろいろと観光スポットは回ったようだけど、ガイドさんの解説を聞きながら居眠りをしたことも多かったし、どんなものを見たのかよく覚えてないよ、という感じではある。
 以下の抜き書きは、そのようなツアーの中で、この景色いいねという具合に、訳も分からず撮ったスナップ写真の一部である。

 人はいかなる瞬間においても、意識のなかにさまざまな度合いの鮮明さをもった、非常に多数の観念を抱いている。そのなかのもっとも鮮明な観念がどれだけの度合いの鮮明さをもつかは、その人がどれだけはっきりと覚醒した意識をもっているのかに依存している。精神のいかなる覚醒度の状態であっても、各状態それぞれについて、そのうちにある全観念が超えることのできない鮮明さの最大限というものがあり、しかもつねに二、三の観念がその限度に達している。他の観念がこのレベルにまでのし上がってくれば、それまでそのレベルにあった観念はより低いレベルまで下がらなければならない。最高レベルの下には他の観念がひしめいており、さらに底の方には、人が非常に強い注意を払わなければ存在が確認できない、きわめてぼんやりとした観念がある(「習慣」、pp.203-204)。

人間の客観的な自己意識、すなわち自分についての観念は、その大部分が、当の人間が取り組んでいるすべての問題を含んだ、目的や目標の観念の結合体からできていていると考えることができる。さて、この結合体の部分部分のほとんどは、それぞれぼんやりしたものであるとしても、全体としての観念はおそらく意識の全時間を通じて、きわめて鮮明なものとして存在しているであろう。そして、興味ぶかい観念というのは、この人間の目標にかんする結合全体の観念と、その形態において似ていて類比的なものなのである。そこで、この観念は、その人の自己意識を形成する結合体が鮮明なものである限りで、それ自身もまた鮮明なものになるのである(「習慣」、pp.209-210)。


 また、池上嘉彦『英詩の文法 語学的文体論』(研究社、1967)も読み了わる。「詩」を「言語行為の1つ」(p.vii)として講じた教科書。第1部では、音韻論、形態論、統語論、意味論が扱われている。特に音韻論における「韻律(metre)」、「頭韻(alliteration)」、「脚韻(rhyme)」の解説は勉強になる。第2部は文体論であるが、文体は"synomimous with linguistic choice"(J,. Sledd)であるので(p.130)、実質的には(詩的)語彙論になっている。その中でも特に興味深かったのは、シェイクスピアなどのエリザベス朝の詩人・劇作家に準拠した「'Appearance'と'Reality'の表現」。自我なり自己について、哲学的・社会学的に論ずる場合でも参照されるべき1章といえるだろう。
 ただ、「英詩の文法」とはいっても、引用されるのは19世紀までで20世紀の〈現代詩〉はオミットされている。勿論、本の性格上致し方ないのだろうけれど、詩の形式性が強調され、詩というのは勿体ぶった陳腐な美辞麗句だという印象が導かれてしまう。ローマン・ヤコブソンが指摘するような、破壊的・革命的な「詩的言語機能」は隠蔽されてしまう。


 内田雅敏『これが犯罪? 「ビラ配りで逮捕」を考える』(岩波書店)を買う。薄いブックレットではあるが、現代日本における〈法〉の在り方を考える上では重要な1冊といえるだろう。特に、収録された奥平康弘氏のテクスト「「トゲのある言説を唱える自由」に挑戦する「秩序」とは?」は玩味熟読すべし。
 ところで、この内田さんの『乗っ取り弁護士』という本が文庫化されたが(ちくま文庫)、立ち読みしたところ、これが映画化に堪える面白さ。


 既に倫敦のテロ事件についての論評が続々と出されているが、これらについては、以後、少しずつでも紹介はしてゆきたい。


 ところで、韓国の「社会党」が党員「学習成績競争大会」(http://www.labornetjp.org/Members/Staff/blog/144)。問題はというと、

・1890年代のロシアの運動に登場する「合法的マルクス主義」を説明し、代表的な人物の名前を1人あげよ
レーニンが「なにをなすべきか」1章で批判するベルンシュタインの「修正主義」とは何か
レーニンが「なにをなすべきか」3章1節で言う「経済主義者などによる政治扇動狭小化」とは何か
レーニンが「なにをなすべきか」3章2節で経済主義者などに反対して提出した「全面的な政治暴露の組織化」とは何か
レーニンの「なにをなすべきか」3章4節によれば、経済主義とテロリズムの間にはどんな共通点があるか 

レーニンが「ロシア社会民主主義者の課題」で言う「課題」とは何か、またそれに対する自分の考えを書け
・「なにをなすべきか」5章でレーニンがいう「集団的組織家としての新聞」とは何かを書き、それに対する自分の考えを書け
安田さんも指摘するように、先ず何よりも「この時代にレーニンの「試験」というのもすごい」。私は全く知らないのですけど、韓国「社会党」というのはその党名から察すると、社会民主主義を目指す政党なのですよね。それが何故今になってレーニンなの?