靖国、そして生命

 昨日、「アサヒ・ビール」が上海のコンビニに見当たらなかったという話をしたけれども、今回の〈反日デモ〉の淵源ともなったとされるテクスト;


  アサヒビール名誉顧問 中條高徳
  「桜と花嫁人形と靖国神社」





国事行為たる戦争の犠牲者を祀る靖国神社に詣でる事をしない政治家に、国政に参加する資格はない。


という最後のセンテンスが強烈というか無茶苦茶なのだが、何故か、その直前のパラグラフは、



戦争は人類に最大の不幸を招く。あってならない残酷なものである。たった一人の息子を戦場に失った母親も尠なからずあった。「軍国の母」と讃えられたとて母親の気持は癒されない。靖国神社にはたくさんの「花嫁人形」が供えられてある。あの息子にせめて人形でもいい、花嫁だけは抱かしてあげたいという母親の切ないまでの真情が伝わってくる。何回見ても滂沱と涙する。この花嫁人形を見れば平和の尊さが身に沁みる筈だ。


 テクストの前半は、基本的にはノスタルジーに憑かれた爺の繰り言。これについては、黙って傾聴するというのが礼であろう。何しろ、誰も記憶を選ぶことはできず、記憶に選ばれる存在なのであるから。しかし、そこから、あの結論をどのようなロジックを使えば導くことができるのか、理解不能。中国での報道を原文でも全訳でも読んでいないので、全くの憶測なのだが、あの強烈かつ無茶苦茶な結論のみが強調されたのではないか。もし、テクストがまるごと訳されていたりすれば、これが常軌を逸したテクストであり、常人の筆になるものではないということが解ったのではないか。



 大谷栄一氏「うに」さんオルター・トレード・ジャパン編集の新雑誌『at』を紹介している。私は中村尚司氏の「スリランカ、戦禍と天災に抗う人びと」が興味深かった。


 上野千鶴子氏へのインタヴュー「生き延びるための思想」も〈上野節〉を堪能できる。例えば、埴谷雄高や「埴谷のニヒリズムにまるまる染まった」池田晶子への罵倒(pp.25-26)とか。


 ここでの語りを貫いているのは、「左翼であれ、右翼であれ」「「命より大事な価値がある」っていうイデオロギーへの、嫌悪」(p.23)だろう。ところで、以前、イデオロギーとしての〈生〉〈生命〉に対する反発を書きつづったことがあったが、その時の真意というのは、〈生〉や〈生命〉を強調することが却って〈生〉〈生命〉それ自体を損ねてしまうのではないかということだった。言葉を換えれば、上野氏が嫌悪する「死ぬための思想」を動機づけてしまう。何と言っても、個別の生は脆いものであり、その脆さから脱するために、より大きな生、集団的な生、さらにはそれを超えた世界的・宇宙的な生に身を寄せるというのは、生のロジックから外れてはいまい。さらに、身を寄せ、合体するだけではなく、身を捨て、大きな全体のパーツとして、我が身をリサイクルさせるという仕方でサヴァイヴするという志向も出てくる。もとより、より大きな生などは想像的なものでしかない。有限である身には無限者を十全に理解することはできず、部分である者が全体を透明に見通すことはできないからだ。しかし、そうしているうちに、想像的なものでしかなかったものが具体的かつ現実的である筈の〈個〉に勝るリアリティを帯びてくる。集団というものが現実味を帯びるというのはこういうことだろう。そうなれば、全体(リヴァイアサンといってしまおうか)のサヴァイヴァルのためには、部分は犠牲になって当然ということになる。上野氏の嫌悪する「死ぬための思想」は、寧ろ相互主観的にはリアルであるものの、実在するかどうかは不可知であるところの全体のサヴァイヴァルを正当化し、それへと脆き個を動員するものでないのか。だから、「命より大事な価値がある」ということは勿論、〈ない〉と言ってしまうことは躊躇する。昨日、スピノザへの関心を語ったけれども、スピノザの体系に対しても、同じような危うさを感じている。だって、スピノザを使って、全体主義を正当化するというのはけっこう容易なことでしょう。話を戻すと、「自分を全部集団に譲り渡」すというのは、勿論、シニシズムに疲れたからというのは勿論あるけれど、或る意味で生命論的に基礎づけられたもの、つまり疲れたインテリ玄ちゃんの戯言であるだけでなく、もっと身体的などうにかしてサヴァイヴしたいということに動機づけられたものでもあるんじゃないだろうか。勿論、「命より尊い価値なんてない」というのは、あちらこちらから押しつけられてくる綺麗事をぶっ飛ばすパワーがある。しかし、重ねて言うが、「死ぬための思想」に対して、真っ向勝負で「生き延びるための思想」を対置することはどうなのか。寧ろ、「死ぬための思想」をシカトする思想こそが必要なのではないか。また、〈リヴァイアサン〉の前提には、〈万人の万人のための戦い〉があり、新自由主義というのは、一方で〈万人の万人のための戦い〉を煽りつつ、〈リヴァイアサン〉への動員を動機づけているということがあるのだけれど、真に「生き延びるための思想」をいうならば、その回路を絶つ術を示さなければならない。ではどうすればいいのか。「私たちはどうしても「ボキャ貧」なんだな、ということ」(p.22)なのだけど、その出口の1つは、〈命を逸脱する〉ということにありそうな気がする。

 『論座』の憲法特集のコメントをしようと思ったけど、これはこの次。