はるきたれば、なはつくか

『読売』の記事;


無戸籍1年:玻南ちゃん…名古屋市不受理 最高裁抗告へ

 名古屋市東区に住む夫婦が、昨年11月23日に生まれた次女に「玻南(はな)」と命名して出生届を出したところ、「玻」が人名に使える常用漢字などにないとして、区役所が不受理にした。夫婦は戸籍法に基づき名古屋家裁に不服を申し立てたが却下。名古屋高裁への抗告も10月27日付で棄却されたため、4日にも最高裁へ特別抗告する。玻南ちゃんは間もなく1歳になるが、今も戸籍も住民票もない。

 夫婦は、矢藤仁さん(40)と妻清恵さん(38)。長女には旧約聖書の女性から瑠都(るつ)さんと名付けた。次女は同様にハンナにちなんで「玻南」と名付けることを誕生前から決めていた。ことわざには、優れた者はどこにいても目立つことを表す「瑠璃も玻璃も照らせば光る」がある。姉の「瑠」との対をなす字として、妹には「玻」を使いたかったという。

 しかし、「瑠」は人名に使えるが、「玻」は戸籍法施行規則が定めた「常用漢字」「戸籍法施行規則別表」の約2900字にはない。東区役所は出生届を受理せず、夫婦は司法に委ねることにした。

 過去には、家裁が人名漢字になかった「琉」「曽」の字の受理を役所に命じたこともある。夫婦は「玻」が地名や名字にも使われていること、画数も少ないこと、「玻璃」(水晶、ガラス)として児童書などにも使われていることも調べて証拠提出したが、名古屋家裁、高裁とも主張を認めなかった。

 清恵さんは「批判もあるだろうが、子どものために、できるだけのことをしてあげたという証しを残したい」と話している。【山田一晶】
http://mainichi.jp/life/today/news/20091103k0000m040139000c.html

円満字二郎人名用漢字の戦後史』によれば、「人名用漢字」以外の字の受理を認めることについての最高裁判所の基準(2003年12月)は、「家庭裁判所は、審判手続に提出された資料、公知の事実等に照らし、当該文字が社会通念上明らかに常用平易な文字と認められるときには、当該市町村長に対して、当該出生届の受理を命じることができる」というもの(p.201)。
上の記事の「琉」については、沖縄の人からの訴えであり、那覇家裁那覇市に「受理」を命じ、さらに「法務省戸籍法施行規則を改正して、「琉」を「人名用漢字別表」に追加する」という措置が取られた(p.191)。この背景として、当時(橋本龍太郎内閣の時代)米軍基地用地を巡って沖縄県民と日本政府との間で緊張が高まっていた状況での県民感情の慰撫があったとされる(p.192)。「曽」については、実は最高裁判所で「社会通念上明らかに常用平易な文字」とは認められないとして、拒否されている。上で引用した基準は、そのときの最高裁の「決定書」からの引用である。しかし、「曽」はその最高裁決定の2か月後の2004年2月に(行政的な措置として)「人名用漢字」に追加されている(p.203)。
ところで、「琉」に関して、那覇市は「琉」という字の受理は拒否したものの、「名前未定」として出生届は受理している。裁判所に持ち込まれたのは、家族が海外に滞在することになって、パスポートを申請したが「名前未定」の子どものパスポート発給が拒否されたことがきっかけ(p.189)。取り敢えず「名前未定」で出生届を出し、戸籍に登録するという途がある。しかし、上の名古屋の例でもそうだが、出生届そのものが拒否されている例は少なくない。「名前未定」に関しては係員の裁量(或いはローカル・ルール)に委されているのだろうか、それとも統一的な基準が存在するのだろうか。子どもの福祉に配慮するならば、取り敢えず「名前未定」でも出生届は受理すべきだとは思うが。
人名用漢字の戦後史 (岩波新書 新赤版 (957))

人名用漢字の戦後史 (岩波新書 新赤版 (957))

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071017/1192588766 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090718/1247899601

CLS est mort!

Roger-Pol Droit “L'ethnologue Claude Lévi-Strauss est mort” http://www.lemonde.fr/carnet/article/2009/11/03/l-ethnologue-claude-levi-strauss-est-mort_1262337_3382.html
EDWARD ROTHSTEIN “Claude Lévi-Strauss, Anthropologist, Dies at 100” http://www.nytimes.com/2009/11/04/world/europe/04levistrauss.html


クロード・レヴィ=ストロースが逝去。あとひとつき足らずで101歳のお誕生日だったというのに。


100歳のお誕生日に関しては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081124/1227455232 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081128/1227903787も。

40歳?

40歳問題 [DVD]

40歳問題 [DVD]

中江裕司監督のドキュメンタリー『40歳問題』*1を観る。
浜崎貴司Flying Kids)、大沢伸一桜井秀俊真心ブラザーズ)が、ただ40歳前後という理由だけで集められ、セッションし、共同制作の曲をレコーディングすることになる。音楽のメーキングを描いたフィルムとしては面白かった。というか、そのような映画はどれも面白いのだが。ゴダールの『ワン・プラス・ワン』(ローリング・ストーンズ)にしても『右側に気をつけろ』(リタ・ミツコ*2)にしても*3。特に、大沢伸一はキャラも音楽性も他の2人とは全然違うので、果たしてこの3人が共同で曲を作れるのだろうかと思わせて、それが画面に緊張感を孕ませている。ただ、その音楽のメーキングと所謂〈40歳問題〉との関係は取ってつけたような感じで、別にそんなのなくてもいいんじゃないかと思った。
出演はほかに、スネオヘアー角田光代*4、新田恵利(元おニャン子クラブ*5)、洞口依子箭内道彦スチャダラパー小川直也リリー・フランキーなど。

ワン・プラス・ワン [DVD]

ワン・プラス・ワン [DVD]

右側に気をつけろ [DVD]

右側に気をつけろ [DVD]

坪井正五郎論「人種」(メモ)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091004/1254657572に関連して。

阿部純一*1「20世紀前半日本の人種・民族研究における「異種混交」現象への応答――自然/文化科学の境界線をめぐる論争――」『名古屋大学社会学論集』29*2、2009、pp.21-46


このテクストでは、「昭和初期の人類学及び(民族)社会学の研究者が、民族接触・文化変容・雑婚・混血児といった現象に対処するために、いかなる方法論的戦略を用いたのかという問題」が検討される(p.21)。主に論じられるのは、岡正雄文化人類学)、小山栄三社会学)、金関丈夫(自然人類学[人種学])の3人。
第2節「人種と雑種」では、その前段階として、坪井正五郎鳥居龍蔵の所論が検討される。坪井正五郎に関する部分を抜き書きする;


(前略)日本人類学の創始者とされる坪井正五郎(1863-1913)は、西欧および日本における「人種」の用法を検討した論考で、体格や容貌といった身体的差異とならんで、言語や居住地や風俗習慣の相違なども「人種」の指標として用いられていると報告している(坪井,1893*3)。たとえば現在でも日常レベルで使用されているものに「黄色人種」という言葉があるが、坪井によると、当時はそうした「皮膚の色」に基づく分類の他にも、「国の名」に基づく「日本人種」とか、「大陸の名」に基づく「亜細亜人種」といった言葉も一般的に用いられていたという。
こうした「人種」概念の多義性は、坪井にとって人種分類人為性を語るものだった。つまり「人種」とは、その分類をおこなう論者の目的・関心に応じて適宜設定される操作概念なのである。そのため、そこで選択される指標が異なれば、「人種」の数や範囲も変わってくるし、ある基準からは同じ「人種」でも別の基準からは異なる「人種」とされる場合がある。こう考えると、結局「人種」という言葉は、ほとんど「人の群」(ibid:427)、つまりgroupに等しい意味しかもたないことになる。(略)「日本人種」とか「亜細亜人種」とかいう用法は、要するにnational groupもしくはregional groupとして了解しておけば足るのである。(p.22)
「19世紀末の日本人類学の草創期において、人種=身体的指標=生物学的分類という発想は、いまだ支配的ではなかった」。また、「坪井にとって、「人種」はどこまでも人為的な境界線でしかなく、いかなる基準を選んでも、それは人類の移動性や雑種性を固定化・単純化し、強引に分断してしまう」ことでしかない(p.22)。さらに、

(前略)坪井にとって、「人種」が人為的分類であること自体は何ら問題ではない。これが忘れられること、つまり自然な客観的世界を反映しているという実態主義的な想定こそ、最も危険なのである。こうした坪井のスタンスは、人類の学習性や移動性、そして混交性や雑種性にたいする確固たる状況認識によって支えられたものであった。(p.23)
坪井正五郎については、Wikipediaのほかに、


東京大学坪井正五郎資料」
http://cr-arch.chi.iii.u-tokyo.ac.jp/hdadb/collections/shogoro.html
岩手県二戸市『日本の科学者・技術者100人』の中
http://www.civic.ninohe.iwate.jp/100W/05/050/index.htm


また、「青空文庫」では3本のテクストが公開されている;
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1242.html

*1:以前阿部純一郎氏の「市民権の空洞化と〈同化〉論争――国民の境界をめぐるダイナミクス――」(『コロキウム』2)を採り上げたことがある。 See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090702/1246508928 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090709/1247114509 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090713/1247461327 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090827/1251340298

コロキウム〈第2号〉―現代社会学理論・新地平

コロキウム〈第2号〉―現代社会学理論・新地平

*2:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090601/1243821238

*3:坪井正五郎「通俗講話人類学大意(続)」『東京人類学会雑誌』88、1893。

TransAsia on Singaporean Cinema

CSF-MLへの毛利嘉孝さんのメッセージ;


<第20回トランスアジア文化研究会のお知らせ>(転送歓迎)

ごぶさたしています。久しぶりにトランスアジア文化研究会を開催します。
今回は明治学院大学博士課程で、シンガポール映画研究をしている盛田茂さんをお招きして11月19日(木)に行います。盛田さんは、この夏シンガポールでフィールドワークを行い、シンガポールの映画監督のインタビューなどを行って帰国したばかりで、新鮮なお話もうかがえると思います。
関心のある方はぜひご参加ください。

■とき :2009年11月19日(木)19:00〜20:30
■ところ:東京芸術大学北千住キャンパス1F第一講義室
〒120-0034 東京都足立区千住1-25-1 Tel: 050-5525-2742
http://www.geidai.ac.jp/access/senju.html
JR地下鉄北千住駅徒歩5分
※今回は会場が東京芸術大学なのでご注意ください。
※研究会に先立って発表で取り上げる映画の上映会を17時から行います。こちらもご参加ください。

■報告者 盛田茂(明治学院大学
■討論者 テヅカヨシハル(駒澤大学

■報告タイトル
シンガポール映画『881』から見る政府・映画制作者間の「交渉のダイナミズム」

■報告概要
産業構造転換を推進するシンガポールでは、次世代産業の有力候補として映画は、98年の「映画委員会」創設以降コンテンツ産業発展の一翼を担う位置付けを与えられた。制作費補助等の「映画産業振興政策」により、国産映画の制作本数は99年の8本から08年には32本(劇場公開17本)と急増する一方で、政府の振興政策を逆手に取った映画制作者の多様な「異議申し立て」が表出している。本報告では、国産映画興行収入第1位(07年)となったシンガポール映画『881:歌えパパイヤ』(ロイストン・タン監督)を基に「交渉のダイナミズム」を検証する。
(後略)
11月19日は日本にいる筈。

古森義久on 「子ども手当」

http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/1273827 (cited in http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2009/10/post-8fd3.html


3K新聞の古森義久氏が米国の華盛頓特別区から「子ども手当*1批判を発信。これに対しては小倉秀夫氏のコメンタリーは略妥当だろうとは思う。軽く驚いたのは、古森義久氏が格差社会を憂う平等主義者、また国家権力のプライヴァシーへの介入に抗するリベラリストとして振る舞っていることだ。ところで、2007年の1月に厚生労働大臣だった柳沢伯夫が「産む機械」発言というのをして世の中を騒がせたことがあったが*2、古森氏がそのときどんなスタンスを採ったのかは興味津々。そのとき、柳沢伯夫を擁護した人の多くは(古森氏の言葉を使えば)「人間が子どもを生むこと、育てることに、国家権力が踏み込み、その基本の判断を決めるという思考」を肯定する態度を示していた*3
さて、古森氏曰く、


子ども手当はそもそも子ども自身に与えられる資金でさえありません。子どもの親に与えられるのです。そのカネが本当に「子育て」に使われるのか。父親のパチンコ代や飲み代にはならないのか。母親のエステ代にはならないのか。
「パチンコ代や飲み代」、「エステ代」に産経新聞購読料も付け加えるべきだと思う人も多いのでは?
古森氏やその支持者が(ヘテロの男性の場合は)自分の性器を切断することによって「子ども手当」の受給対象者になることを拒否するということを示せば、けっこう盛り上がるだろう。そうすれば、「子ども手当」が〈少子化対策〉に無効果・逆効果であることを身体を張って証明することにもなる。