PC調子悪いよ

一昨日から昨日にかけて、PCの調子が最悪。突然電源がoffになってしまうということを何回となく繰り返した。つまり、突然死が繰り返される。最後に機械が死に、そして蘇生してから、5時間くらい経っているけれど、取り敢えずまだ無事。ということで、PCが何時死ぬかわからないという不安の下で、仕事をしたり、こうしてblogのための由無事をタイプしたりしているわけだ。理屈で言えば、PCの突然死というのは機械が過熱状態になったときに、機械側の自衛作用として起こるということなのだろうけれど、その原因のひとつとして、Operaのウィンドウの開きすぎというのがあるらしかった。PCが死ぬのは決まって、Operaを起ち上げたときだったのだ。突然死が頻発する以前、メモリーがきつくなっているのか、タイプしても直ぐに入力されないとか漢字変換に時間がかかるということがあったが、Operaのウィンドウを大幅に削減してからは、メモリーの負担も軽くなり、頗る快調なのだが、まだまだ油断はできない。修理に出した方がいいに決まっているのだが、そうしたら、かなりの期間、仕事も何もできなくなるので、暫くはだましだまし使い続けて、来月日本に一時帰国するときに預けて、また上海に戻ってきたときに受け取るというのはできるのかなと考えている。

中村獅童と木村拓哉

李懿「竹内結子要離婚 中村獅童很困惑」『東方早報』2006年11月2日


中村獅童は下の記事によれば、今上海にいるらしいが、上の記事では触れられていない。


中村獅童が上海で雲隠れ

 妻の女優竹内結子(26)から離婚を迫られていることが分かった歌舞伎俳優中村獅童(34)は2日、滞在先の中国・上海のホテルを変更した。獅童は上海でテレビ東京系「李香蘭」(来春放送予定)を収録しているが、この日は収録シーンはなくオフ。製作会社関係者によると、報道各社がホテルまで取材に訪れたため、宿泊先を変えたという。また、獅童の所属事務所は「昨日コメントした通り。(獅童の)母も心労で具合悪くなっちゃったみたい。家にはいると思いますが、表には出てきません」と話した。一方、竹内側の反応はなかった。

[2006年11月3日8時30分 紙面から]
http://www.nikkansports.com/entertainment/p-et-tp0-20061103-111992.html

また、


 駱俊澎「木村拓哉今天到滬拍日劇」『東方早報』2006年11月3日


李香蘭』撮影のためということだが*1、記事の中心は山崎豊子原作の『華麗家庭』のこと。これは『華麗なる一族』だが、木村が演じるのは昔加山雄三が演じた役? 木村拓哉については、原作者である山崎豊子の特別の推薦があったということが記されている。事前の情報では、上海浦東空港にファン100名余りが朝5時半に集合して出迎えるとのこと。

*1:ところで、肝心の李香蘭は誰が演じるの?

永沢光雄

永沢光雄氏の死は桑江さん*1経由で知った。評価が高い代表作である『AV女優』という本はまだ読んでいない。
以下、『産経』に載った絶筆と追悼記事;


生老病死」最後の手紙 永沢光雄氏死去 「脅えることなく慰められ」

 長い睫毛(まつげ)が、安らかな死に顔に淡い影を落としていた。1日死去した作家、永沢光雄さん。4年前に下咽頭(いんとう)がんで声を失い、そのストレスからアルコールに依存するようになった。周期的に襲ってくる鬱(うつ)、腸閉塞(へいそく)とそれに起因する猛烈な吐き気…。心身ともボロボロになりながらも、ユーモアを忘れることなく、本紙文化面にコラム「生老病死」を書き続けた。最後の原稿が届いたのは死の1週間前。そこにつづられていたのは、死を静かに受け入れようとする清澄な心境であった。
                    ◇
 産経新聞文化部 桑原聡様
 毎週、私の汚い手書きの原稿を整理して下さって誠に有難うございます。感謝の念に堪えません。
 それにしてもつくづく思うのですが、なぜ街の人たちはあんなにも元気なのでしょうか。かつかつと靴音を鳴らして歩き、地下鉄の階段もすいすいと登る。病院の待合室の年配の女性たちだってそうです。待ち時間など気にもせず、患者同士で大声で笑いながら会話に興じている。いったい、どこが病んでいるのでしょう。羨(うらや)ましさを通り越して嫉妬(しっと)さえ覚えます。
 ところで今日の昼過ぎ、私は猛烈な吐き気に目を覚まされました。少しでもその気持ち悪さを楽にできる格好はないかとベッドの上を転げ回ったのですが、吐き気は増すばかりです。ああ、また腸閉塞かという思いが頭をよぎりましたが、今までの経験からしてそこまでは至っていないようです。胃薬を飲みましたが状況は変わりません。これはもう力ずくで眠るに限る。私は今日の夜の分の睡眠薬を口に放り込みました。
 けれども、昼間であった為か、もう長年愛飲している薬の効果がなくなったのか、二時間で目を覚ましてしまいました。私は後者だと思います。
 けれども、わずか二時間でも眠ったおかげか、吐き気はなくなっていました。私は安堵(あんど)し、秋の夕暮れの光が入ってき始めた寝室の天井を眺めました。そして、ふと気づいたのです。
 隣室に、『死』というものが潜んでいることに。しかし、私はその輪郭のはっきりとしない、ぼんやりとした『死』というものに脅(おび)えることはありませんでした。むしろ、慰められました。これで、やっと楽になれると。
 私に自死するつもりはありませんし、多分しないでしょう。けれども『死』が向こうからやってきたら甘んじて受けるつもりです。これからやりたい仕事はいろいろありますが、仕方ありません。ただ残した妻にいろいろな厄介をかけることだけに罪悪感を覚えてます。
 今週末、心臓の検査で大学病院へ行きます。死の影に慰められた人間が、生きる為にだるくて重い体をひきずって病院へ行くのです。なんと滑稽(こっけい)なことでしょう。
 だから、人間は面白いのかもしれません。
 桑原さん。これからも私に限りがくるまで、なにとぞよろしくお願い致します。
 (ながさわ・みつお=作家)
                  ◆◇◆
 【追悼】
 ■失われたはずの声、耳に残る
 1日午後10時、ほろ酔い加減で帰宅したところへ携帯のベルが鳴った。永沢さんの妻、恵さんからだった。
 「永沢が亡くなりました」
 業病のがんではなく、アルコールによる肝機能障害…。絶句し、涙がとめどなくあふれ出した。
 永沢さんと初めて会ったのは、昨年6月初めのこと。下咽頭がんの手術で声帯を失った「インタビューの名手」が、術後の日常をつづった『声をなくして』(晶文社)を読み、インタビューを申し込んだのだ。心身ともに過酷な境遇にありながら、永沢さんの文章は透明感にあふれていた。どんな人物か、ぜひ会ってみたいと思った。
 新宿のマンションを訪ねると、酒席の用意が整っていた。ふたりでグイグイ焼酎をあおりながら取材そっちのけで、4時間近く雑談をした。そばで妻の恵さんがニコニコとわれわれのやりとりを見守っていた。
 永沢さんはノートに青いサインペンを走らせて私とやりとりをしていたのだが、不思議なことに私の記憶の中では、永沢さんは確かにしゃべっているのだ。
 「声を失って一番悔しいことは」と尋ねると、「落語をちょいとやりたかったなあ。〈宮戸川〉ちょっとトクイ」と永沢さんは答え、少しばかりはにかんだ表情をした。
 「この人、好きだなあ」と思った。
 翌月から本紙文化面で「生老病死」の連載を始めてもらった。期待通り、透明な文章で日々のできごとや感想がつづられていた。重くつらい内容だが、読み手に負担を与えない文章。そこに、永沢さんの矜持(きょうじ)と他者に対するやさしさを感じた。
 連載が進むうちに、この連載が永沢さんの「白鳥の歌」になるのでは、という思いにとらわれるようになった。
 「そうなることを期待して連載を依頼したのでは」と問われれば、「そうかもしれない」と答えざるをえない。しかし、永沢さんはこの連載を楽しんでくれたに違いないとも思う。
 最後の原稿は締め切りより5日も早く送られてきた。そこには「土曜日(10月28日)に自分の身に何かが起こりそうな気がするから、早めに送ります」という添え書きがあった。最期まで律義でやさしい人だった。(桑原聡)
(11/03 13:25)
http://www.iza.ne.jp/top/obituary/26035/

また、1996年のインタヴュー*2。インタヴュワーがインタヴューされる。ポール・ボウルズに出会ってしまったんだ。そういえば、この当時、まだボウルズは生きていた。

教育の地域的格差(メモ)

取り敢えず、youlalaさんの「東京の教育格差」と題した文章をそのまま引用しておくことにする;


今の日本が「格差社会」といわれてしばらくたつ。大都市圏とそれ以外の教育での地域格差があると言われることがあるが、東京でも区によって差がある。

週刊ポスト」2006年4月14日号「小泉首相は必読! 東京23区 ここまで来ている(ひと目でわかる)格差社会」という記事に東京23区別の私立中学進学率が出ている。

1位は中央区の40.7%、2位は千代田区の38.8%、3位は文京区の38.7%、4位は港区の33.5%、5位は目黒区の30.5%である。ここまでが30%以上である。

下位をみてみると、19位は荒川区の15.9%、20位は江東区の14.2%、21位は葛飾区の12.8%、22 位は足立区の11.5%、23位は江戸川区の11.1%である。

この結果をみると上位は都心にある区で下位は城東にある区である。

これには国立中学の筑波大学附属駒場筑波大学附属・東京学芸大学附属竹早・東京学芸大学附属大泉・東京学芸大学附属世田谷・東京学芸大学附属小金井・東京大学附属・お茶の水女子大学附属等は含まれていない。

また「週刊ポスト」では国語のテストの正答率をくらべて就学援助率と学力は相関があると書いている。

進学校の生徒がよく行く塾で学校を指定しないSEGは新宿、平岡塾は渋谷、大数ゼミ・高数ゼミは渋谷、栄光会は高円寺・お茶の水に、NEXUSは渋谷に尊塾は市ヶ谷にある。Z会進学教室もお茶の水・渋谷・新宿・池袋・三鷹等にある。放課後通塾することを考えると都心に住んだ方が子どもへの負荷は小さそうである。

山田みつ子さんが1999年11月文京区幼女殺害事件をおこしたのも、彼女が被害妄想的な性格・思考回路・思考形態の欠陥と 認知障害があったとはいうものの、文京区音羽に住んでおり、被害者が合格したお茶の水女子大学附属幼稚園に娘が第一次抽選ではずれたこととの関係も取りざたされた。

2006年6月30日の朝日新聞の記事に東京の私立国立小学校進学率の記事がある。これによると、進学率は地域差が大きく24%の渋谷区から1%前後の東部の区まで20倍余りの開きがある。都心から南西に高率地帯が伸び、そこから離れるにつれて率が下がる。

文京区・千代田区ではお受験をする人に向けたマンションが売り出されることも多いという。

都道府県別に地域格差をみることにも意義があるだろうが、大都市圏では、もっと細かくみていく必要を感じた。
http://d.hatena.ne.jp/youlala/20061004

それにしても、この方、やけに受験産業周辺の事情に詳しいよな*1
さて、日本の新政権の「教育再生」もとい「恐怖の頭脳改革」はサッチャー時代の英国を範とするところ大であるという。以下の『東京新聞』の記事を読めば、それは上に指摘されているような既に在る「格差」を拡大する可能性も高い;

公立校に市場原理
教育基本法改正

 教育基本法「改正」を最重要課題として船出した安倍政権。その第一歩となる首相の私的諮問機関「教育再生会議」の初会合が今日開かれる。改正の柱は「愛国心」と「市場原理」の導入だが、そのモデルは一九八〇年代後半の英国でのサッチャー流改革だ。「チーム安倍」はこの英国の教育改革を絶賛するが、当の英国では「教育を荒廃させた」という酷評もある。英国での試みから考えてみた。

 安倍首相は著書「美しい国へ」の中で「教育の再生」に二十七ページを割いている。特筆すべきはサッチャー英元首相の教育改革への絶賛ぶり。「誇りを回復させたサッチャーの教育改革」という見出しもある。

 安倍氏が最優先課題と位置付ける教育基本法改正案では「愛国心」問題が注目を浴びてきた。しかし、日本版・サッチャー改革の導入で、教育システムが劇的に変わることも、実は愛国心問題に劣らぬ大問題だ。

 安倍氏は著書などで「ゆとり教育の弊害で落ちた学力を取り戻す。国語・算数・理科の基礎学力を徹底させる。全国的な学力調査を実施し、結果を公表するべきだ」とし、「サッチャー改革のような国の監査官による学校評価制度」の導入を唱えている。

 さらに「公立学校の再生のため」には、父母が学校を選べる学校選択制が必要だとし、自治体が配布するクーポン券で学校を選択できる「教育バウチャー制」導入も主張している。

 来年の通常国会には教員免許を十年に一度見直し、能力や実績のない教師の免許更新を認めない「教育再生法案」も提出する方針。いずれをみても、サッチャー氏の改革そっくりだ。

■学力の底上げ実現のはずが

 では、英国でのサッチャー流教育改革とは何だったのか。サッチャー保守党政権は「英国病」とまで言われた経済停滞を国民の教育水準アップで回復しようと決意。その決め手が従来、教員たちの自由裁量が強かった教育に「市場原理を持ち込む」手法だった。

 具体的には、一九八八年の教育改革法で設けた全国共通カリキュラムと統一学力テスト(学テ)が二本柱で、九二年には実施の進ちょくを現場の教室で査察する独立行政機関・教育水準局が設置された。

 英国の義務教育は五歳から十六歳までで小学校が六年と中等学校が五年。この計十一年を四つの「キーステージ」(段階)に分け、各ステージの最後(七、十一、十四、十六歳)に統一学力テストを受けさせる。

 この流れは、九七年からのブレア労働党政権で強化され、全国規模の成績到達目標まで定められた。この結果、全国の小中学校は学テの成績で輪切りされ、各校ごとに「水準」に達した生徒の割合も公表される。メディアも各校の「実力」を実名で書き立てた。

 親たちはこうしたデータを参考にして、わが子を少しでも上位の学校に入れようと必死になる。学校は文字どおりの自由競争にさらされ、全体の実力が底上げされる“はず”だった。ところが実態は違った。

 むしろ、教育改革は失敗だったとの反省が強まり、導入を始めた保守党内からも「(現行の)教育体制に終止符を打つ」といった声まで上がっている。一体、何が弊害となったのか。

 二〇〇二年に五歳の息子をロンドン市内の公立小学校に入学させた経験のある日本人の元駐在員(47)は当時をこう振り返る。

 「好きな公立小学校に入るのは難しい。単に近所に住んでいればよいわけでなく、何年前から住んでいるか、まで問われた。だから生後すぐ、上位校の近所に引っ越し時折、校長に顔を売って『将来、うちの子を入学させてほしい』と予約しておかねばならない。露骨ではなかったとはいえ、できる子優先で入学させている雰囲気も感じた」

■小学生らにもストレス増大

 統一学力テストの際、学校の平均点を落とさない対策にも直面した。「日本人生徒は英語力がないから受験させない方が得だと思ったのでしょう。うちの子は『受けなくていいですから』と言われた」という。

 「イギリスの教育改革と日本」などの著書のある法政大学の佐貫浩教授(教育行政)は、サッチャー改革について「ある意味、基礎学力が向上した。これは英語が母国語ではない子どもの基礎学力を上げるという目的もあったため。ただ、日本はこの点をすでに達成している」と指摘する。

 むしろ、英国では「(テストで測れるものが)本当の学力か」「読み書き、計算などの基礎は上がっても思考能力は上がっているのか」という論争が起きているという。また、学校間で競争させ、学校選択制を導入したことで「成績が良く生徒の人数が多いところに予算が優先配分され、学校間格差が広がった」。

 それは地域格差にも広がる。入学希望者が上位校の近所に引っ越すようになったため、周辺の地価が上がってしまう。その結果、上位校に入学できるのは富裕層の子どもだけになる。全体を底上げするどころか、格差社会を象徴する現象が生み出されたという。

 子どもへのマイナスの影響も表れた。佐貫教授は「ストレスが高まった」点を挙げる。ロンドン在住のジャーナリストで、小学生の子息を抱える阿部菜穂子さんもことし二月の講演で「テストのある七歳児と十一歳児の約三分の一がストレスを感じ、十一歳児の四分の一が自信が無いと答えたというデータがある。夜眠れない子や心身症の子も増えている」と話した。

■丸のみすれば『公立校解体』

 こうした弊害が表面化する中、英国四地域の中でも教育改革への抵抗が元来、強かったスコットランドに加え、ウェールズ北アイルランドでも改革を否定する動きが強まっている。

 北アイルランドウェールズはすでに学テの結果公表を取りやめており、来年度までに学テ自体を廃止する。ことし五月には「全英校長会」が年次総会で、学テ結果の公表を取りやめるよう決議したという。

 英国教育事情に詳しい首都大学東京の大田直子教授(教育政策論)は「そもそもサッチャー元首相が目指したのは(当時の)日本の公立学校制度だった」と語る。さらにブレア政権下では市場原理導入だけではなく、底辺校の学力向上のための救済措置を加えるなどの修正も施されたと解説する。「そうした内容や制度を細かく吟味することを抜きに、市場原理導入だけを優先すれば、日本の公立学校は解体してしまう」

 ジャーナリストの斎藤貴男氏も「日本も人気校近くに越したり、送り迎えできる富裕層と貧しい層の格差が絶対に広がる。本当はリーダーになるべき人だけが教育に恵まれればよいと思っているのではないか。学校は『いい材料(入学者)を仕入れて、いい製品(卒業生)を出荷する』場所になるだろう」と警告する。

 佐貫教授も日本版サッチャー流改革にこう警鐘を鳴らす。「英国と違って、学校の自主性を抜きに国が学校を一律に評価すれば、学校や教師の自主性は消え、政治権力で教育を統制するシステムができあがる。こんな恐ろしい改革はない」

<デスクメモ> 記憶に残る恩師たちがいる。理科の時間に水俣の公害映画を見せてくれた人、国語に文庫本を使った人、世界史の教材はたしか全部ガリ版刷りのお手製だった。「そんな偏向教育がオマエのような人間を育てたのだ」と言われそうだが、感謝している。もし、サッチャー流の教育体制だったら出会えなかった。(牧)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20061018/mng_____tokuho__000.shtml


安倍氏教育再生会議を立ち上げて「教育改革」を議論するのだという。その際、イギリスのサッチャー政権を手本にしているというのだから、驚いてしまう。1997年に保守党を破った労働党のブレアが掲げたスローガンは「教育・教育、そして教育」だった。サッチャー教育改革は、教育・学校の現場を市場原理に委ねるもので新自由主義の発想だった。全国統一のナショナル・カリキュラムを導入して、全国一斉の学力テストを実施。その結果を「学校番付表」として公表するというすさまじいもの。上位の学校には希望者が集まり、下位の学校は生徒が入学してこなくなり、校長は責任を問われて教師はクビが飛んでいく。安倍氏が「学校バウチャー制度」を提唱しているが、ひとにぎりのエリート校を押し上げていくとともに、廃校となる学校が続出しかねない。

教育に市場原理を導入することで、「地域の絆」はズタズタになる。富裕層が多い地域の公立学校は上位の番付を確保して成績のよい生徒を有利に選抜することになるだろう。超エリート校・エリート校・準エリート校といくつかの学校は序列化されるだろう。下位と突き放された学校からは希望者がわずかとなり、所得の高い家庭や中間層は、より上位の学校へと逃げ出していく。残った生徒たちは、生活の余裕がない階層の子どもたちを中心として「荒れる学校」へとドミノ倒しのように環境を悪くしていく。そして、さらに学校の評判が下がり、希望者はほとんどいなくなって、数年で廃校となる。

貧困層の多い地域からは、学校が次々と廃校となり、無学校地域となる。すると地域はいよいよ廃れてくる。東京で言えば、いくつもの街がスラム化して、犯罪が多発するようになる。「地域の絆」とは、階層や収入を問わないあらゆる地域の子どもが地域の公立学校で過ごすことで、親同士が顔をあわせ学校行事に関わり、相互に警戒するよりは助け合う関係へと転じていく。地域の学校は、都市化された社会で唯一の地域の紐帯なのだ。ハサミで切ってしまえば、バラバラになるのは当然で、一握りの超エリート校を生んでいくかわりに多くの子どもたちの平均学力は低下していくと予想できるのだ。
http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/2e6b3540227601df1a01b4bd9a0e6762

という保坂展人氏のシナリオは些か極論のように見えるかも知れない。しかし、新政権の政策がそうした可能性を秘めていることは否定できまい。
それから、上に引いた3つの言説を読むと、教育問題というのは不動産市場と密接な関係を持っているらしいということがわかる。また、保坂氏の文章から窺えることは、(多分以前からそうだったわけだが)教育問題は警察や警備会社といった官営・民営の〈秩序維持サーヴィス産業〉のビジネス・チャンスと関連しており、新政権の政策はそのビジネス・チャンスを拡げる可能性が高いということである。

哲学三種(メモ)

http://d.hatena.ne.jp/faa/20061029/1162145668


酒井泰斗氏経由で知る。酒井氏のMixi日記には著者との応答あり。曰く、


世界内の出来事やわれわれの実践に理論的な説明を与えようとする哲学と,そのような理論化の試みを放棄するよう示して回る哲学がある.しかし,これら二つは実際のところ,ある見解を共有した上で異なる対応を取っているようにも思える.それは,われわれを含め,世界のあれこれは問題を起こすことなく進行している,という見解だ.

アキレスは亀を追い抜くし,われわれは言葉の意味を理解している.世界で起こる出来事やわれわれの実践がつつがなく進行しているからこそ,それに体系的な説明を与えようという機運が生まれるのだし,また,その複雑さを示して説明を挫折させることも同時に可能になる.

さらに、「誰もが知っているように世界は恐ろしく複雑だから,理論的な説明の試みはしょっちゅううまくいかなくなるし,それが難しいと言うことはとても簡単だ」と。

しかし,どちらの立場に立つにせよ,説明の失敗,たとえば説明が矛盾を引き起こすことは,世界の中に得体の知れない何かがあることを含意しない.説明とは無関係に,すべてはその通りにうまいこと進行している.ある哲学者は懲りずに理論の改良を試み,またある哲学者はそこからある種の悟りの境地に達する.
ここで、「第三の哲学者」が登場するわけだ。曰く、「その人たちにしたがえば,理論的説明の挫折は,挫折を引き起こすえもいわれぬ何かがあることを,あるいはその痕跡をかろうじて示す」。
「第三の哲学者」は定義(属性)の否定の彼方に〈神〉の実在を観ようとする否定神学者に似ているのかも知れぬ。ただ、哲学者ならぬ生活世界の住人の視点からすれば、客観的な現実を思い知るとはそういうことなのだろうなとは思う。
因みに、この方、句読点が理系的。