永沢光雄

永沢光雄氏の死は桑江さん*1経由で知った。評価が高い代表作である『AV女優』という本はまだ読んでいない。
以下、『産経』に載った絶筆と追悼記事;


生老病死」最後の手紙 永沢光雄氏死去 「脅えることなく慰められ」

 長い睫毛(まつげ)が、安らかな死に顔に淡い影を落としていた。1日死去した作家、永沢光雄さん。4年前に下咽頭(いんとう)がんで声を失い、そのストレスからアルコールに依存するようになった。周期的に襲ってくる鬱(うつ)、腸閉塞(へいそく)とそれに起因する猛烈な吐き気…。心身ともボロボロになりながらも、ユーモアを忘れることなく、本紙文化面にコラム「生老病死」を書き続けた。最後の原稿が届いたのは死の1週間前。そこにつづられていたのは、死を静かに受け入れようとする清澄な心境であった。
                    ◇
 産経新聞文化部 桑原聡様
 毎週、私の汚い手書きの原稿を整理して下さって誠に有難うございます。感謝の念に堪えません。
 それにしてもつくづく思うのですが、なぜ街の人たちはあんなにも元気なのでしょうか。かつかつと靴音を鳴らして歩き、地下鉄の階段もすいすいと登る。病院の待合室の年配の女性たちだってそうです。待ち時間など気にもせず、患者同士で大声で笑いながら会話に興じている。いったい、どこが病んでいるのでしょう。羨(うらや)ましさを通り越して嫉妬(しっと)さえ覚えます。
 ところで今日の昼過ぎ、私は猛烈な吐き気に目を覚まされました。少しでもその気持ち悪さを楽にできる格好はないかとベッドの上を転げ回ったのですが、吐き気は増すばかりです。ああ、また腸閉塞かという思いが頭をよぎりましたが、今までの経験からしてそこまでは至っていないようです。胃薬を飲みましたが状況は変わりません。これはもう力ずくで眠るに限る。私は今日の夜の分の睡眠薬を口に放り込みました。
 けれども、昼間であった為か、もう長年愛飲している薬の効果がなくなったのか、二時間で目を覚ましてしまいました。私は後者だと思います。
 けれども、わずか二時間でも眠ったおかげか、吐き気はなくなっていました。私は安堵(あんど)し、秋の夕暮れの光が入ってき始めた寝室の天井を眺めました。そして、ふと気づいたのです。
 隣室に、『死』というものが潜んでいることに。しかし、私はその輪郭のはっきりとしない、ぼんやりとした『死』というものに脅(おび)えることはありませんでした。むしろ、慰められました。これで、やっと楽になれると。
 私に自死するつもりはありませんし、多分しないでしょう。けれども『死』が向こうからやってきたら甘んじて受けるつもりです。これからやりたい仕事はいろいろありますが、仕方ありません。ただ残した妻にいろいろな厄介をかけることだけに罪悪感を覚えてます。
 今週末、心臓の検査で大学病院へ行きます。死の影に慰められた人間が、生きる為にだるくて重い体をひきずって病院へ行くのです。なんと滑稽(こっけい)なことでしょう。
 だから、人間は面白いのかもしれません。
 桑原さん。これからも私に限りがくるまで、なにとぞよろしくお願い致します。
 (ながさわ・みつお=作家)
                  ◆◇◆
 【追悼】
 ■失われたはずの声、耳に残る
 1日午後10時、ほろ酔い加減で帰宅したところへ携帯のベルが鳴った。永沢さんの妻、恵さんからだった。
 「永沢が亡くなりました」
 業病のがんではなく、アルコールによる肝機能障害…。絶句し、涙がとめどなくあふれ出した。
 永沢さんと初めて会ったのは、昨年6月初めのこと。下咽頭がんの手術で声帯を失った「インタビューの名手」が、術後の日常をつづった『声をなくして』(晶文社)を読み、インタビューを申し込んだのだ。心身ともに過酷な境遇にありながら、永沢さんの文章は透明感にあふれていた。どんな人物か、ぜひ会ってみたいと思った。
 新宿のマンションを訪ねると、酒席の用意が整っていた。ふたりでグイグイ焼酎をあおりながら取材そっちのけで、4時間近く雑談をした。そばで妻の恵さんがニコニコとわれわれのやりとりを見守っていた。
 永沢さんはノートに青いサインペンを走らせて私とやりとりをしていたのだが、不思議なことに私の記憶の中では、永沢さんは確かにしゃべっているのだ。
 「声を失って一番悔しいことは」と尋ねると、「落語をちょいとやりたかったなあ。〈宮戸川〉ちょっとトクイ」と永沢さんは答え、少しばかりはにかんだ表情をした。
 「この人、好きだなあ」と思った。
 翌月から本紙文化面で「生老病死」の連載を始めてもらった。期待通り、透明な文章で日々のできごとや感想がつづられていた。重くつらい内容だが、読み手に負担を与えない文章。そこに、永沢さんの矜持(きょうじ)と他者に対するやさしさを感じた。
 連載が進むうちに、この連載が永沢さんの「白鳥の歌」になるのでは、という思いにとらわれるようになった。
 「そうなることを期待して連載を依頼したのでは」と問われれば、「そうかもしれない」と答えざるをえない。しかし、永沢さんはこの連載を楽しんでくれたに違いないとも思う。
 最後の原稿は締め切りより5日も早く送られてきた。そこには「土曜日(10月28日)に自分の身に何かが起こりそうな気がするから、早めに送ります」という添え書きがあった。最期まで律義でやさしい人だった。(桑原聡)
(11/03 13:25)
http://www.iza.ne.jp/top/obituary/26035/

また、1996年のインタヴュー*2。インタヴュワーがインタヴューされる。ポール・ボウルズに出会ってしまったんだ。そういえば、この当時、まだボウルズは生きていた。