Brion par Murakami

鎌倉幻想行

鎌倉幻想行

村上光彦「地から天をめざして」in 『鎌倉幻想行』、pp.60-88


マルセル・ブリヨン*1について;


マルセル・ブリヨン(一八八五年、マルセイユに生まれ、一九八四年になくなった)は、伝記作者・芸術史家・考古学者として視野の広い活動をしている。しかし、この多面性がわざわいして、かえって彼の本領をなす小説家としての仕事が十分に紹介されずにいるのは残念なことだ。彼の小説は幻想的想像力の横溢したもので、そこには、自由奔放な詩精神が流動している。しかもヨーロッパの知性を内面から涵養している神話学的遺産が、そのなかでおのずから息を吹き返している。それゆえ、彼の作品には非常に多くの神話的象徴が見られる。ただし、それらの象徴は、いちいち学問的操作によって配置されたものではない。知性が夢幻の翼に乗って自由に飛翔しているとでもいえようか。豊かな学識が無意識に濾過されたうえで、万華鏡のように思いがけない展開を見せているのだ。彼のばあい、想像力と知性との調和はみごとと言ってよい。(pp.69-70)
この後で、10頁以上に亙って、『枯れ木の影』という小説の紹介がなされている。
また、

ブリヨンの世界像においては、地下の火も水も鉱物も、また地上の植物界も動物界も、愛の燃焼に参加しつつ、すべてが人間を天空に押し上げるのに役立つのだ。そして、その愛が社会的には罪と目されるばあいであっても、悲しみの聖母がやさしく見守りながらそれを浄化する。
ぼくはこの世界像を端的に表す象徴的な形象を、カスパール・ダヴィド・フリードリヒ(一七七四―一八四〇)*2の「山中の十字架と大聖堂」という絵画作品のうちに見ることができる。マルセル・ブリヨンはその大著『ロマン派絵画』において、この《悲劇的風景画の創始者》にとくに一章を割いている。ブリヨンは、あずフリードリヒによるテッチェン教会の祭壇画についてこう述べている。「山と森林と十字架、すなわり地の神々とキリスト教の〈贖い主〉とを統合する主題は、この芸術家の思想と感情とをもののみごとに表現したものである……。」さらに彼は、「山中の十字架と大聖堂」を解説しこう語っている。

フリードリヒは、十字架と山と森林との連関という主題をいまひとたび用いて、一八一一年に彼のもっとも独得な作品のひとつを描いている。左右に並び立つ樅の木と十字架――こんどは、十字架は泉のほとりに据えられている――との背後に、雲に溶け込まんばかりに聳える尖塔をいただいた、ほとんど幻影に似た様相を呈する、高いゴチック式大聖堂がすっくと建っている。これは、およそ人が見ることのできる、もっとも風変わりで、しかももっとも感動的な作品のひとつであり、これまたロマン派絵画史上、重要な時期を劃するものなのである。画家は、純然と幻想的な風景のなかにゴチック様式の建築を導入し、しかもこの建物が、夢の構築物ででもあるかのように、虚空はるか高く漂っているという現実離れした雰囲気によって、風景をいっそう幻想的にしているのである。このことは、十九世紀のこの最初の十年間の人たちのあいだに新しい感受性が生まれでたことをあかしだてている。すなわち、中世のもろもろの形に感動する能力が、また、これらの形と原初的な諸力――奔流・巌・森林が発散する諸力――とのあいだに、それらを結びつけることが可能な所以をなす性質上の額縁を認めたがる心性が、生まれたのである。
ところで、マルセル・ブリヨンはこの文のなかで触れていないが、フリードリヒの画面を見ると、泉の噴出口は三つの巨大な岩で構成された岩組みの狭間に開いている。そして、中央背面の岩を背にして、キリスト磔刑像を掲げた高い十字架といっしょに、複雑に枝を錯綜させた、鉱物質を思わせる詰屈した枯れ木が源頭から生い立っているのだ。画家はなぜここに枯れ木を置いたのか。絵を見直すと、中央に立つこの枯れ木のほかに、泉が滝をなして落ち込む広い淵の左右にも、岩肌にしがみつくようにして大小の枯れ木が枝を苦しげに広げている。(pp.85-87)