紙の上の映画

「「セクシー田中さん」作者の手記」https://nessko.hatenadiary.jp/entry/2024/02/09/095137


ドラマ『セクシー田中さん』とその原作者、芦原妃名子さんの自死によって惹き起こされた波風については、当のドラマも視ておらず、原作の漫画も読んでいないので、それに対する意見というのは自粛せざるを得ない。


映画やドラマを観るのが好きな者としては、マンガの映像化には小説から映像化する場合にはない厄介さがあるなと前から感じていて、制作陣がそのあたりをうまくやってくれればいいんですが、テレビドラマだと制約も多いだろうし、観る側も原作マンガのファンになるほどなんかめんどいですしね。

 マンガ自体が、絵でつないで物語を展開させていく表現形態なので、熱心な読者には場面の絵が刷り込まれてるし、かといって実写でマンガをそのままやるとスカスカ感が漂うし、絵でつなぐマンガならではの飛躍も作品の魅力だったりしてて、それを実写でどうやるかというなんぎもある。

(マンガも、原作者がついて、マンガに仕立てるのは別の制作陣だったりすることがあって、小説よりは映画に近いジャンルなんじゃないかと前から思ってるんですが)

一般論として、ここで言われていることは重要な問題なのではないかと思う。ただ、「小説から映像化する場合」の暴力的な衝撃性は軽視してはならないのではないかと思う。何しろ、小説の読者は、小説の登場人物の具体的な容姿なんかを勝手に想像して愉しんでいるのに、「映像化」というのはそれを具体的な役者の身体によってヴィジュアル的に限定してしまうことだからだ*1
それはさておき、漫画、特に劇画と呼ばれる類いのものは「小説よりは映画に近い」と思います。個人の作品というよりは、分業に基づく集団の作品。歴史的にも、『ゴルゴ13』に代表されるような劇画は、紙の映画或いは静止した映画として製作されてきたといえるのでは? 戦後、東大卒の山田洋次や京大卒の大島渚に象徴されるように、映画界は学歴エリートに独占されるようになって、低学歴の人たちは締め出されるようになった。劇画は、学歴のために映画界に入れなかった人たちのリヴェンジとして始められたという側面もある*2。しかし、紙だからこそ、リアルな映画では予算上、或いは技術的な制約のために撮れなかった画面を実現してしまった。実際、劇画を読んで、悔しい思いをした(リアルな)映画作家は少なくなかったらしい。最近では、CGの発展によって、以前では考えつかなかったようなシーンを撮ることが可能になっているけれど、その技術的進歩の背後に劇画への対抗心はなかったのだろうか?
さて、21世紀になってからの映像化を巡る原作者とのトラブルと言えば、何よりもル=グインを怒らせたジブリゲド戦記』だろう。

*1:但し、特にエンタメ系の小説の場合、雑誌掲載段階から読んでいるような読者の場合、挿し絵という仕方で、不十分な仕方ではあるが、ヴィジュアルは与えられているということになる。

*2:See https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20110818/1313639595 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/09/30/102215