優「日本民間航空のパイオニア 「伊藤音次郎」」『ちいき新聞』2024年2月4日
伊藤音次郎*1は日本の民間人として初めて飛行機を設計・制作し、飛行を行った。
大阪で生まれ13歳で丁稚奉公に出た音次郎の人生は、17歳で見たライト兄弟の活動写真で決定づけられました。「自分で造ってみたい」と19歳で上京、1915年24歳の時に、働きながらほぼ独学で設計・製作した飛行機「恵美号」で空を飛んだのです。
翌1916年1月には稲毛と東京を55分かけて往復し、民間機として帝都訪問飛行に成功。航続距離が短かった当時では快挙となり、日本中を熱狂させました。また同年4から11月には全国巡回飛行を行い、各地で大歓迎を受けました。
「鷺沼海岸」は1960年代の埋立てのために現在は存在しない。
音次郎が当初拠点とした稲毛は、遠浅で潮が引くと広大な干潟が広がり、しかも砂が締まって固く、滑走路として利用可能なものでした。しかし1917年の台風の高潮で壊滅状態に。そのため津田沼町(現習志野市)鷺沼海岸に研究所を再建したのです。以来約30年にわたり音次郎は習志野で、民間航空発展のために奮闘し続けました。困難や挫折を繰り返した音次郎ですが、そのたびに復活、多くの飛行機やグライダーを製作し、貴重な航空写真も残しました。また後進の育成にも力を注ぎ、その門下生はそれぞれの道で活躍し、今日の民間航空の礎を築き上げたのです。
さて、伊藤音次郎は第二次世界大戦後、また別の仕方で日本史、或いは〈航空〉に深くかかわることになる。「戦後は成田市三里塚地区で農家になり、成田空港の建設を支持して真っ先に土地を売った」*2。Wikipediaを参照して詳しく述べると、音次郎が入植したのは「千葉県印旛郡遠山村十余三駒の頭」(現在の成田市東峰)。現在は成田空港のB滑走路附近。音次郎は鷺沼から神社を持ってきたらしく、この神社が厄介な紛争を巻き起こすことになる。
「東峰神社と伊藤音次郎」というblog記事*3によると、
現在のB滑走路南端近くに、空港の敷地内に食い込んで「東峰神社」があります。この神社は、日本の民間航空先駆者の一人である「伊藤音次郎」氏が、終戦直後、この場所に入植して、苦労して農場を開いたときに、現在の習志野市鷺沼にあった「伊藤飛行機研究所」内に祭られていた「航空神社」を、この地に遷座したもののようです。その後、東峰地区の氏神様のようになっていたようです。
伊藤音次郎氏は成田空港建設が発表された1966年の翌年、1967年に所有地を空港公団へ一番最初に譲渡しています。この時に、東峰神社の土地も一緒に譲渡されたのではないかと思うのですが、この経緯については良く分かりません。
しかし、B滑走路が北に延ばされて2180m滑走路として供用開始する前の2001年6月16日に、航空法の制限を超える高さの立木があることを理由に、空港公団が神社内の立木を、突然伐採しました。
これに対して、残っていた東峰地区住民らは神社の所有権と、伐採への謝罪などを空港公団求める訴訟を起こしました。
この訴訟は2003年12月5日に「神社の土地の所有権を地区住民側に譲渡する」などの内容で和解が成立しました。