白岩英樹*1「書物復権によせて」『書物復権 共同復刊』28、p.2
「復権」の前提には「失権」があるという。書物の「失権」は「版元」側からは「品切れ」と表現される。
いうまでもなく、我々は往々にして道を誤る。本来ならば十全に関心を向けられて然るべきであった他者を、座視して遣り過ごし、彼らが「失権」して初めて、自らの無知と無関心を恥じる。そして、悔悟しつう気づくのだ。権利を失ったのは彼らだけではない。世に二つとない彼らの声を喪失することで、我々もまた、同じ人類として「失権」したのだと。
それでも、彼岸へ渡ったのちに「復権」を果たす例もまれに存在する。律法学者の嫉妬を買って磔刑に処せられたキリストは、3日後に「復活」し、使徒たちに永遠の言葉を託したのち、天に昇った。また、不当な裁判・判決を甘んじて受容し、毒杯を仰いだソクラテスは、弟子プラトンの著述によって「復権」を成し遂げた。
いまから顧みれば、キリストにしてもソクラテスにしても、死刑に処せられるまとkもな理由など皆無だった。弟子たちが乞い願ったように、その気になれば、あらゆる措置を講じて死を回避することだってできた。にもかかわらず、彼らは真正面から死を受け入れた。そうすることで、自らの身を賭した言葉で紡ぎ続けた「よりよく生きる」を全うしたのだ。
しかし、彼らに「失権」の受難が訪れていなかったとしたら……。はたして、かれらの言葉にふれたときに生じる、脳天を撃ち抜かれるような衝撃は残存しえたであろうか。「よりよく生きる」ことを欲する我々の魂が、逃れえない「原罪」に悶え苦しみ、「無知の知」を腹の底で受け止めるようなことがあっただろうか。
19世紀に米国の文芸を「復権」させた思想家R・W・エマソンは、この世でもっとも価値があるものは「活き活きした魂」であり、我々を「インスパイアすること」が書物の務めだと論じた。”inspire”の語源は、「神の息(spire)」を「内側に入れること(in)」である。つまり、「失権」した魂を根底から祝福・鼓舞し、「復権」させるのが書物というわけである。
我々が人間である以上、過誤から解放される日は永遠に来ない。自他の「失権」は必至である。ただ一縷の望みがあるとすれば、「復権」であろう。可逆的な「復権」を残す限りにおいて、我々人類は永遠の「失権」を忌避することが可能になる。過ちを認めて、自他ともにやり直すことができるのだ。いわば「復権」という営み自体に人類の叡智が埋め込まれている。