「キリスト教徒」の条件(ジョン・ロック)

寛容についての手紙 (岩波文庫)

寛容についての手紙 (岩波文庫)

ジョン・ロック*1『寛容についての手紙』。
この本はロックのテクストの直接の翻訳ではない。そもそもこれは羅典語で書かれたもので、ウィリアム・ホップルによる英訳の翻訳ということになる。
基督教の目的或いは基督教徒の条件について。


(前略)正しい主張をしているとしても、もしその人が、キリスト教徒でない人々をも含む全人類への慈愛と謙虚さと善意一般とを欠いているとすれば、その人は間違いなくキリスト教徒たりえないということになるのです。「異邦人の王は、その民を宰どり、……然れど汝らは然あらざれ」とわれらが救世主は弟子たちに語っておられます(『ルカ伝』第二二章二五―二六節)。真の宗教の仕事はまったく別のことにあるのです。それが創られたのは、外面的な華麗さを打ち立てるためでも、教会の支配を手に入れるためでも、強制力を行使するためでもなく、美徳と敬虔との規制によって人々の生活を規制するためなのです。
キリスト教の旗の下に参じようとする人は、誰であっても、何にましてまず自分自身の欲望と悪徳とに対して戦いを挑まなければなりません。誰であれ、生活の浄らかさ、態度の純潔さ、精神の温和さと謙虚さとを欠く限り、キリスト教徒であると名乗ったところでまったく空しいことなのです。「凡て主の名を称うる者は不義を離るべし」(『テモテ後書』第二章一九節*2)。(pp.12-13)

(前略)実際、自分自身の救済には関心を払っていないようにみえる人が、たとえ私の救済に関心があるといってくれたとしても、私はとてもそれを信じられないでしょう。なぜならば、自らの胸の内にキリストの宗教を真に抱いている人でなければ、他の人をキリスト教徒にしようと真剣に心から努めることなどできないからです。福音書使徒たちを信じる限り、いかなる人も、慈愛心なしには、また、力によってではなく愛によって働く信仰なしにはキリスト教徒にはなりえないのです。
私は、宗教を口実として他人を迫害し、拷問し、毀傷し、殺戮している人々の良心に対しておたずねしたいのですが、貴方がたは、はたしてそれを彼らへの友情や親切心からなしているのでしょうか。そうした熱烈な狂信者たち(zealots/zelotes)が、福音書の戒律に背いて犯している明白な罪ゆえに、自分の友人や親しい知己を同じ方法で矯正しているのであれば、また、彼らが、恐るべき悪特に染まり、改悛しなければ永遠の破滅に至る危険にさらされている自分の信仰仲間をも火や剣で迫害しているのであれば、さらにまた、彼らが、このように、拷問を加えたりあらゆる方法で残虐行為を行なったりすることで彼ら自身の愛と救済への欲求を表現しようとしているのであれば、その場合には、私も彼らが友情や親切心からそうしていることを信じもしましょう。けれども、それが解るまでは、私にはとてもそうとは信じられないのです。(pp.13-14)
勿論、ロックはアイロニーとして語っているのだが、案外迫害者は「友情や親切心から」迫害していると本気で思っていることが多いのでは?