この紋所は

朝日新聞』の記事;


「葵の御紋」そっくり、商標登録 徳川側、特許庁に異議

2016年11月5日08時16分

 水戸徳川家の「葵の御紋」によく似た紋様を水戸市内のイベント会社が商標登録していることが分かった。水戸徳川家の15代当主が理事長を務める公益財団法人が特許庁に異議を申し立てていて、同庁が異議を認めるかどうか検討している。

 特許庁の公開情報などによると、民俗芸能の企画・運営などをしている水戸市のイベント会社が昨年12月、お守りや日本酒、演芸などに使うとして、三つ葉葵の紋様を商標として登録した。

 これに対し、15代当主徳川斉正さんが理事長の公益財団法人「徳川ミュージアム」(東京都)が今年3月、ミュージアムがすでに商標登録している紋様と酷似しているとして、特許庁に異議を申し立てた。葉の模様が多少異なる程度で、代理人を務める下坂スミ子弁理士は「こちらの使用にも影響が出かねず、見過ごすわけにはいかなかった」と話している。

 特許庁は現在、異議を認めるかどうかの審理中だ。イベント会社は取材に対し「この件についてはコメントしない」と答えている。
http://www.asahi.com/articles/ASJC44JJ2JC4UJHB01X.html

家紋を「商標登録」できるのね! 
でも問題は少なくとも2つある。「商標登録」すれば独占的な使用が保証されるものの、「商標」は誰に対しても転売(譲渡)可能であるので、悪い可能性が重なって、薩長の手に渡ってしまうということもありうる。そうしたら、シャレにならないぞ。また、徳川宗家や尾張紀州、さらに松平の諸流といった「葵の御紋」を共有する当事者は数多いるのに、水戸徳川家の「徳川ミュージアム*1が「葵の御紋」を「商標登録」して独占的に使用するというのは妥当なのだろうか。まあ、多くの日本人は水戸黄門*2というか東野英治郎石坂浩二などによって、「葵の御紋」といえば「水戸」という連合を形成するように条件づけられてしまっているということはあるのだろうけど。
さて、「徳川」ではなく「島津」の話。京都の「島津製作所*3。私はずっと薩摩藩に関係ある企業だと思っていた。丸に十文字のマークだし。しかし無関係。創業者の初代島津源蔵について、Wikipediaは以下のように叙述している;

京都の醒ヶ井魚棚(現・堀川六条付近)で仏具の製造をしていた島津清兵衛の次男として、天保10年(1839年)5月15日に生まれた。家業を治め、1860年(万延元年)に21歳で木屋町二条に出店した。この地は高瀬川の船便の終点に近く、当時の重要な流通拠点であった。また、京都府は殖産興業のため1870年(明治3年)に勧業場、舎密局などをこの付近に設立し、源蔵は舎密局に出入りするようになった。

ここで知識を得た源蔵は1875年(明治8年)3月31日に教育用理化学機器の製造を始め、島津製作所を創業した。1877年(明治10年)の第一回内国勧業博覧会では錫製の医療用ブーシーを出展し、内務卿・大久保利通から褒状を受けている。また、同年に京都府は科学思想啓発のために国内初の有人気球を計画し、源蔵はその実行責任者となった。 ガス球部分には胡麻油で溶かした樹脂ゴムを塗布した羽二重を用い、鉄くずと硫酸を四斗樽10個を使って発生させた水素ガスを内部に封入した。招魂祭のある同年12月6日に仙洞御所の広場で飛行試験が行なわれ、5万人の観衆の前で36mの高さまで気球は浮上した。これによって源蔵の知名度は大きく向上したといわれる。

1878年明治11年)2月3日から3年間、京都府はゴットフリード・ワグネルを舎密局に招聘・雇用した。彼は化学工芸の指導などを職務とし、理化学器械の製造のため出入りしていた源蔵にも接していた。ワグネルから送られた木製旋盤は島津創業記念資料館に現存する。また、当時のカタログには「ワグネル新発明」という説明の付いた蒸留器が掲載されている。源蔵も後に科学教育に携わるようになり、1886年明治19年)には「理化学的工芸雑誌」を発刊し、京都府師範学校(現・京都教育大学)の金工科で教職を一年間務めた。

1894年(明治27年)12月8日に脳溢血のため、55歳で亡くなった。長男の梅次郎が二代目・源蔵を襲名し、会社を継いだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%BA%90%E8%94%B5_(%E5%88%9D%E4%BB%A3)