「道家」だった

池田知久「秦漢帝国による天下統一」*1から。
前にも書いたように、「二世界論」というのがそもそもわからないのだった。


戦国末から儒家も『易』の経典化のなかで道家の二世界論を取り入れた。もともと『易』は民間の占いの書であり、儒家とは何の関係もないものであった。儒家の重要な思想家は孔子から荀子にいたるまで、これに肯定的に言及したことがなかった。孔子が『易伝』(『易』の注釈書)の十篇を作ったという話は、漢初になって『易』を儒教化する必要からつくられた虚構であり、また孔子が『易』を読んだとされることも疑わしい。漢代に儒家が『易伝』を著わした目的は、『易』を儒家の経典として取り入れることにあった。そのさい彼らが期待したものは、(a)従来から存在論的思考が不得手だった儒家が、『易』という媒介項を通じて、儒家の内部に道家存在論を導入し、思想体系の基礎づけにあった不安を払拭すること。(b)占いの書としての『易』にそなわる宗教性を批判する従来の伝統的な態度を改め、儒家の道徳的・政治的な徳に達するために必要な基礎段階として、それを自己のうちに包摂して自らの思想世界を豊かにすること、などである。
『易伝』はこうして成った文献であるから、そのなかには道家存在論が多く含まれている。ただ『易伝』はそれを道―万物の関係ではなく、道―器の関係として論じた。『周易』繋辞上伝に見えるその大意は、乾と坤を構成要素とする形而上の道の作用によって、道のなかから形而下の器(万物)が形をもって現われてくるが、その器は人為による変化を加えられて天下の民に有用な法や事業となって展開していく、というものである。注意をひくのは、古い道家存在論が道と万物を単純に対立させながら、万物の被宰性をマイナスに評価し、とくにその人間的な価値にしがみつく卑小性や雑多な利得・効用をもたらす点を嫌っていたのに対して、ここでは形而下の器のもつ人間的・社会的な価値や効用を肯定していることである。(pp.10-11)