2つの「世界」?

池田知久「秦漢帝国による天下統一」*1(in 溝口雄三、池田知久、小島毅『中国思想史』、pp.1-84)


道家」の思想を巡って。


戦国時代の後期に道家という学派(『荘子』の一部)が誕生して、「道」ということばを中心に独自の思想を展開した。道とは万物(自然と人間とからなる世界)を存在・変化させる根源的な主宰者であるが、それに対して人間は、この道によって存在・変化させられる単なる被宰者、万物の一つでしかなく、そえゆえ疎外された没主体的なものと見なされた。こういうわけで、彼らにとって最も切実な問題は人間疎外の克服や主体性の獲得であったが、その基礎には「道―万物」の二つの世界を考える独自の存在論(「二世界論」)が横たわっていた。その目的は、単に万物の一つでしかない人間が、道に到達しこれを把握することにより、道が世界においてもつオールマイティーの能力(いっさいの万物を存在・変化させる主宰性)を自己の手中に収め、それを通じて疎外を克服し主体的となり、自ら偉大な主宰者となって世界のなかに屹立すること、にあった。
戦国状況の進展のなかで道家は現実社会に接近し、それにともなってこの二世界論が理論として整備されると、諸子百家はこぞってこれを受け入れ、それぞれの思想体系のなかにそれを基礎づける哲学として取りこんでいった。道家はまた孔子の始めた天の世俗化・理法化を推し進めて、天を人(人為)の正反対の無為(非人為)という意味に改めた。その結果、天に宗教的な神格としての意味はなくなり、天命は世界の存在。変化の必然性、天道はその法則を意味するまでになった。それどころか、彼らは孔子以来の儒家の天に付着していた道徳的・政治的な意味、つまり善の根源としての意味をも捨て去った。これを行なったのが天人分離論(天と人の相関関係の否定)である。(pp.8-9)

道―万物の二世界論は道家本来の思想である。これによれば、道は万物を支配する世界の主宰者であるのに対して、万物は道によって支配される被宰者である。また、道は時間・空間を超越し人間的な価値をかえりみない偉大な実在であるが、万物は時空のもとに跼蹐し人間的な価値にしがみつく卑小な存在者でしかない。さらに、道はいかなる形をもたず人間の感覚・知覚を通じては把握できない「一の無」であるが、万物はそれぞれ具体的な形をもち、感覚・知覚を通じて把握される「多の有」である。(後略)(p.9)
一見わかりやすい記述だけど、「二世界」で躓いてしまう。2つの「世界」があるの? 「世界」には日常言語的な意味や哲学的な意味があるけど、どう考えても、「道」と「万物」が夫々「世界」として並立するということは納得できなかった。
勿論、古代の「道家」が「世界」という術語を使っているわけではなく、ここで「世界」とはあくまでも池田がテクニカル・タームとして使用しているものであろう。池田が「世界」という言葉を使えるのは、彼が日常言語としての「世界」を既に使っており、哲学用語としての「世界」を学習してきたからであり、池田の論述を読む読者も同様にそのようなコンピータンスを共有することが要請されているのだろう。しかし、にも拘らず、ここで言われる「世界」というのは意味不明なのだった。改めて、「世界」って何? と問わなければならない。
池田の記述を素直に受け容れるなら、「道」と「万物」の関係は二つの「世界」ではなく、「世界」(の内部に棲まう存在者)=「万物」と「万物」を包む「世界」の外部の関係ということになるのでは? アブラハムの宗教(ユダヤ教、基督教、イスラーム)における〈神〉は「世界」の外部で(「万物」を含む)「世界」を創造した。そういうことなのか? 「道は万物を支配する世界の主宰者」という表現。「道」も「世界」であるなら、「道」という世界にも「万物を支配する世界の主宰者」としての「道」が伴い、この循環は無限に続くことになる。