反セフレ論(甘糟りり子)

贅沢は敵か

贅沢は敵か

甘糟りり子「恋愛という関係」(『贅沢は敵か』*1、pp.172-180


少し抜書き;


恋人ではなく、単にセックスだけを目的としてしか会わない相手を、一般的にセックス・フレンドと呼ぶ。本当にこのような間柄が成立するのだろうか。私には不可能としか思えない。
道徳的に考えて、ではなくて、肉体的に考えてみると、それはどうしたって無理じゃないかという気がする。
セックス・フレンドなどという奇妙な単語を操る人々は決まって、セックスなんてスポーツと同じという。彼らの感覚では、ゴルフやテニス、もしくは水泳やマラソンみたいなもの、つまり、セックス・フレンドとは、ゴルフ仲間やダブルスのパートナーとイコールということになる。
セックスはスポーツなんかじゃなくて、会話の一種である*2
肉体という言葉を使って、相手になにかを伝えたり答えたりするものだと思う。なにかとは具体的な感情や欲望ではなく、混沌とした感覚である。そこには、勝敗や数字のようには割り切れない、記号化できない言葉が漂っているはずだ。
私には男の生理は実感できないし、自分以外の女の性的な感覚も経験したわけではない。だから、自分に限って、ではあるが、身体と気持ちが、そんなにきれいに分離するものなのか、不思議なのだ。
おもしろそうな人だから、ちょっと話してみようかななあ、という好奇心は、音声で話されれる言葉だけでなく、肉体的会話にだって当然あるだろう。で、話してみたら、今いち噛みあわなくってがっかり、という結末も、これもまた両方に起こる。
私が理解できないのは、その先である。フレンドというからには、一度ではなく、それなりに盛り上がりその後も何度かセックスするのだろう。そうしたら、他の部分も知りたいと思い始めないのだろうか。だって、たいして興味のもてない相手のためにわざわざ服を脱ぎ、心も身体も消費するなんて、相当面倒くさいことである。
何度もセックスするうちに、あやふやかもしれないけれど恋愛感情に似たものがにじんでくる、と私は考えるのだ。ゴルフでさえ、朝は知らなかった人でもラウンドが終わりになる頃には、うちとけた感情が生まれてくるではないか。
性的快楽が先にあって相手に興味や執着が生まれるのも、立派な恋愛である。セックス・フレンドなどという言葉を使う人は、そのことに後ろめたい気持ちがあるのだろうか。情熱的な恋愛を奇妙な言葉ですり替えるなんて、野暮なことである。
ところで、相手を選ばずだれとでも簡単にしてしまう人を、一般的にセックス・マシーンと呼ぶ。
そういう女の子に関して、知り合いの男性がこう話していた。マシーンな女の子イコール淫乱と思いがちだけれど、むしろ逆のタイプである、快楽にたどりつけないから次々相手を変えて試している場合のほうが多い*3。私は、妙に納得してしまった。
セックス・フレンドとセックス・マシーンとか、そう分類される人々は、無理やり心と身体をひきはがし、セックスだけを独立させ、それをプラスティック製かなにかの物体みたいに扱っているように見える。(pp.173-175)
ところで、拙blogでは「セフレ」という言葉は数度登場しているが*4、「セックス・フレンド」という言葉はこれまで全然登場していなかった。