「恥」と「重荷」

ハンナ・アレント「組織的な罪と普遍的な責任(Organized Guilt and Universal Responsibility)」(『アーレント政治思想集成1』*1、pp.165-180、Essays in Understanding 1930 – 1954, pp.121-132)の最後の節から。


ドイツ人であることが恥ずかしいとはっきり語るドイツ人に会うことが、この間多かった。私は、自分が人間であることが恥ずかしいと応じたいという気持ちにしばしば駆られた。この素朴で原初的な恥の思いは、さまざまな国籍にわたる多くの人間が共有しているものであり、国境を越える連帯感にとって残された最後の絆である。これまでは、この恥の思いに、適切な政治的表現が与えられたことはなかった。私たちの祖先たちは、人類[humanity]という理念に魅了されてきた。しかし、それは国民という問題を軽率にも無視してきたばかりか、もっとまずいことには、人類の理念、そして人類は単一の起源をもつとするユダヤキリスト教的な信条に内在する恐ろしさを考えてもみなかった。ひとはひとを喰うこともできるという事実を発見したために、「高貴な野蛮人」に対する誤った幻想を棄てざるをえなかったことは、たしかにあまり愉快ではなかった。それ以来、人びとは互いをよく知るようになり、人間がもつ潜在的な悪の可能性をますます自覚するようになった。その結果、人びとは、人類の理念からしだいに後退するようになり、共通の人間性という可能性そのものを否定する人種の教義にいっそう染まりやすくなってきたのである。宗教的形態をとろうと人道的形態をとろうと、およそ人類の理念には普遍的な責任とうう義務が含まれていることを、人びとは本能的に感じとったのである。人びとは、この義務をすすんで引受けようとはしない。というのも、一切の感傷を取り去るなら、人類の理念は、人間は人間によってなされた一切の犯罪に対して何らかの仕方で責任を負い、すべての国民は他の国民によってなされた悪の責めを共有しなければならないというきわめて重大な帰結をもつからである。人間であることを恥じる思いは、この帰結に対する洞察の純粋に個人的な、なおも非政治的な表現にとどまっている。
政治的に見れば、人類の理念は、いかなる国民も例外とせずしかもいかなる国民にも罪を帰さないものとして、いずれかの「優越人種」が強者の権利という「自然法則」にのっとって、「生きるに値しない劣等人種」を絶滅させる使命を帯びているなどということはありえないと考える唯一の保証である。だが、「帝国主義の時代」が終わるまで、ナチを将来の政治的手法のまだ洗練されていない先駆者のように見せる段階に私たちが立っているのを見いだすはずである。非帝国主義的な政策を追求し、非人種主義的な信条を堅持するのが日に日に困難になっているのは、人間にとって人類がいかに重荷であるかが日に日に明らかになっていくからである。(齋藤純一訳、pp.177-179)
にも拘らず、こうした謂わば「人間がもつ潜在的な悪の可能性」の「自覚」は「現代のすべての政治的思考の前提条件」であるという(p.179)。そして、最後は「人類が犯しうる逃れがたい罪に対して正真正銘の恐れをいだく人びと、そのような人びとだけに、人間が惹き起しうるはかりしれない悪に抗して、あらゆるところで妥協せずに敢然と闘わなければならぬ局面が訪れるとき、ひとは信頼をおくことができるのである」と結ばれている(ibid.)。
ちょっと構文が複雑なので、原文を写しておく。”Upon them and only upon them, who are filled with a genuine fear of the inescapable guilt of the human race, can there be any reliance when it comes to fighting fearlessly, uncompromisingly, everywhere against the incalculable evil that men are capable of bringing about.” 原文の語順により忠実に訳文を再構成すると、「人類が犯しうる逃れがたい罪に対して正真正銘の恐れをいだく人びと、そのような人びとだけに信頼をおくことができる」ということになる。「信頼」は原文ではrelianceだけど、「信頼」と言っても、倫理的な意味というより機能的な意味合いが強い。だから、「 人類が犯しうる逃れがたい罪に対して正真正銘の恐れをいだく人びとだけが頼りになる」、或いは「人類が犯しうる逃れがたい罪に対して正真正銘の恐れをいだく人びとだけが有用である」とした方が分かりやすいのかも知れない。その前に、”Such persons will not serve very well as functionaries of vengeance.”というセンテンスがある。「人間がもつ潜在的な悪の可能性」を「自覚」するような人は「復讐[というプロジェクト]の構成員としては大して役に立たない」。多分、これと二項対立のペアになっている。話を最後のセンテンスに戻すと、” it comes to fighting fearlessly”のitって何を指しているのか? と思った。やはり、齋藤氏がそうしているように、非人称構文と解して、to以下を指していると考えるべきなのだろう。