関ケ原以前

川嶋將生「1599年 江戸時代の出発」『鴨東通信』(思文閣出版)34、p.6、1999


私が小学生だった頃、鎌倉時代の開幕は〈いい国つくる〉1192年だった。


安土桃山時代の”安土”は問題ないとしても、”桃山”については、桃山の地名はその時代には存在しておらず、伏見城が廃城になってから伏見山に桃樹が植えられてその名称が発生したことを鑑みると、むしろ”安土伏見時代”こそ相応しい時代名なのではないか、とする議論が以前から或る。同様に、安土桃山時代という時期を、何時から何時までと考えるかについても議論があるが、ここでは桃山時代の終わりを、豊臣秀吉が没した慶長3年(1598)とする説と、関ケ原合戦のあった慶長5年(1600)説のあることだけを紹介しておくことにしよう。
秀吉は、あの著名な醍醐の花見がおこなわれてから5カ月後の慶長3年8月18日、伏見城で63歳の生涯を閉じた。その死は、豊臣家ときわめて親しかった醍醐三宝門主義演さえ知らなかったほど、徹底した極秘扱いとされ、ようやく公表されたのは、翌慶長4年(1599)のことである。極秘とされた理由については、豊臣政権自体がかかえていた根本的な問題を考慮しなければならないけれども、直接的には、朝鮮半島に出兵させていた兵士の撤退問題などがあったのだろう。
その後、事態は徳川家康を中心に急展開をみせる。この時はすでに家康派と反家康派が対立を深めていたのだが、閏3月3日になると、こんどは家康に対するほとんど唯一の抑止的存在だった前田利家が没した。そしてその直後の131日、奈良多聞院の英俊は「十三日午刻、家康伏見本丸ヘ被入由候、天下殿ニ被成候、目出候」と、その日記に書き記しているから、当時の世間は、家康は「天下殿」になった、とはやくも認識していたのだろう。

(前略)実質において慶長3年でもって安土桃山時代が終わり、慶長4年(1599)からは徳川氏の下に、新たな江戸時代の幕が切って落とされたと考えられるのではないか。16世紀の終わりは、新しい世紀の始まりだけではなく、文字通り新たな天下人を生み出す時ともなっていたのである。
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https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20160406/1459870654
https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/05/10/090508