ロジャー・パルバース*1「「遠くにある敷居」――四方田犬彦の世界」(in ロジャー・パルバース、四方田犬彦『こんにちは、ユダヤ人です』、pp.245-249)から;
日本の一九八〇年代を回想するのには人によってさまざまなかたちがある。ある人たちにとって、その時期の色調は「地上げ屋」というキーワードで染められた、資産バブルが異常に膨れ上がった一〇年間であった。他の人たちにとっては、一般の日本人の多くが初めて海外旅行した「国際化」の時代だった。また、それ以外の、特に「ヤング」という言葉で当時もてはやされていた人たちにとっては、何もかが「ルンルン」気分の時代であった。
しかし、一九八〇年代は、これらのどれよりも重要になる可能性をひめたもうひとつの気分によってこそ歴史に残るだろう。サブカルチャーは主流カルチャーになり、例えば大島渚や中上健次といった反抗的な人物の影響は急速に広まっていた。前衛芸術とあらゆるデザインやヴィジョンなどの連携も強まっていた。ささやかではあるが、この流れに四方田さんと私は関わっている。一九八七年に四方田さんは韓国に関する本『われらが〈他者〉なる韓国』をパルコ出版から上梓し、私はサム・シェパードとスタニスワフ・ビトキェビッチの戯曲をパルコのスペース・パート3で演出していた。パルコは、サブカルチャーとファッションが見事に結合していた場所の一つである。
日本人が日本及び世界各地のマイノリティーの権利に向かって心を開き始めたのが一九八〇年代だ。東ヨーロッパやラテン・アメリカなどを含む世界中の文学、映画、演劇、アートにおけるサブカルチャーの潮流を認識したためだ。アメリカ合衆国における人種的マイノリティーのことも日本人は強く認識するようになっていた。
やがて、これは日本の人種的マイノリティ―、とりわけ在日コリアンがもっと受け入れられることを促した。日本の観客に韓国映画を紹介することで、四方田さんはこの意識変革に大きく貢献している。日本のほとんどの知識人が最初の海外旅行にヨーロッパやアメリカへ行くのに対し、彼は韓国へ行った。彼の言う通り、「韓国を知れば、日本がよくわかる!」。自分を知るための扉は遠く離れた人々の敷居にあると私は信じている。(pp.245-246)