河合隼雄と宮本顕治

『毎日』の記事;


訃報:河合隼雄さん死去79歳 元文化庁長官

 日本のユング派心理学研究の第一人者で、文化庁長官も務めた京都大名誉教授、河合隼雄(かわい・はやお)さんが19日午後2時27分、脳梗塞(こうそく)のため奈良県天理市の病院で死去した。79歳だった。葬儀は密葬で行い、後日、お別れの会を開く。自宅は奈良市西大寺新田町7の9。

 28年、兵庫県篠山町(現篠山市)生まれ。京大理学部を卒業後、高校教師や京大大学院を経て、62〜65年にスイスのユング研究所へ留学。日本で初めてユング精神分析家の資格を取得した。砂箱と模型による自由な表現で心を癒やす「箱庭療法」を日本に紹介、普及させた。75年から京大教育学部教授、95〜01年5月に国際日本文化研究センター日文研)所長を務め、02年1月、民間人として3人目の文化庁長官に就任した。

 06年8月9日、就任後初めて奈良県明日香村を訪れ、同年4月に発覚した高松塚古墳の国宝壁画損傷事故の非公表問題などを謝罪。同17日に自宅で脳梗塞を起こして入院し、意識が戻らないまま今年1月に任期満了に伴い長官を退職した。

 神話や民話などの分析から、日本の社会や文化、日本人の精神構造などを分かりやすく解説。少年事件や学級崩壊など教育や子どもを取り巻く問題など、幅広い分野での評論、提言などでも活躍した。故・小渕恵三首相の私的諮問機関「21世紀日本の構想」懇談会の座長や、教育改革国民会議委員も務めた。

 著書は、日本と西欧の昔話を比較し、父性原理が支配する西欧と母性原理が支配する日本の違いを分析した「昔話と日本人の心」をはじめ、「無意識の構造」「中空構造日本の深層」など多数。ユング「人間と象徴」など訳書も多い。

 霊長類学者の河合雅雄・京大名誉教授は兄。


毎日新聞 2007年7月19日 16時11分 (最終更新時間 7月19日 20時56分)
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/fu/news/20070719k0000e040093000c.html

晩年の特に小渕内閣以降の政治参加は(ネガティヴな意味ではあるが)凄いと思う。〈右傾化〉というよりは社会の〈心理主義化〉を促進したという意味で。また、実は日本ではユング以上の影響力を持っていたといえると思う。というのは、私の経験では、ユングが好きですという人はけっこういたけれど、その多くはユングの本を直接読んではおらず、中公新書の『無意識の構造』とか岩波新書の『コンプレックス』とかで済ませているのが殆どだった。だから、多くの人にとって、ユングというのは河合隼雄が解釈・要約したところのユングだったわけだ。
無意識の構造 (中公新書 (481))

無意識の構造 (中公新書 (481))

コンプレックス (岩波新書)

コンプレックス (岩波新書)


訃報:宮本顕治日本共産党元議長が死去 98歳
 日本の共産主義運動を主導した日本共産党元議長の宮本顕治(みやもと・けんじ)氏が18日午後2時33分、老衰のため東京都内の病院で死去した。98歳だった。自宅は東京都多摩市連光寺1の31の28。葬儀日程・喪主は未定。参院選後に党葬を行う。

 1958年に党書記長に就任以降、委員長を経て97年に議長を退任するまでの39年間、党の最高指導者だった。国会で多数派を形成し政権を目指す「平和革命」と、旧ソ連や中国の共産党の影響を受けない「自主独立」に代表される「宮本路線」(綱領路線)を推し進め、現在の共産党の基礎を築いた。

 60〜70年代にかけ、社会党(現社民党)との共闘により東京や大阪などで「革新知事」誕生に尽力した。79年の衆院選では41議席を獲得し躍進。議長時代の90年に当時35歳の志位和夫氏(現委員長)を書記局長に抜てきした。近年は党勢の低迷が続いているが、志位委員長体制で「現実・柔軟路線」が定着しており、宮本氏死去による党運営への影響はないとみられる。

 08年、山口県光井村(現在の光市)で生まれた。東京大学在学中の29年に芥川龍之介を批判した「『敗北』の文学」で雑誌「改造」の懸賞文芸評論1等になり、プロレタリア文学運動の担い手に。31年に共産党入党。翌年、党員で文学者の故宮本(旧姓中条)百合子さんと結婚。33年に中央委員となったが、同年暮れにいわゆる「スパイ査問事件」などで逮捕され、治安維持法違反などで無期懲役の判決(後に勅令で刑取り消し)を受け終戦直後の45年10月に釈放されるまで、網走刑務所などで12年近い獄中生活を送った。同党によると戦後、判決は取り消された。

 50年代に入ると同党は路線対立で分裂し、宮本氏は徳田球一書記長(当時)らと対立し一時反主流派に身を置いた。55年の第6回全国協議会で同党が統一されると、58年の第7回党大会で書記長に選出され、70年に幹部会委員長。82年に議長に就任、不破哲三氏を委員長に昇格させた。77年から参院議員を2期務めた。

 94年6月に一過性脳虚血発作で入院してから体力の衰えが目立ち、97年9月の第21回党大会で名誉議長となり、一線を退いた。同大会直後の10月の常任幹部会に出席した後、公の場に姿を見せておらず、00年11月の第22回党大会では他の名誉職と横並びの「名誉役員」となった。

 対外的には「自主独立路線」を提唱。特に中国共産党とは66年、ベトナム侵略に反対する国際的な統一行動にソ連を入れるべきでないと主張する毛沢東主席(当時)に対し、訪中した宮本氏が強く反発して会談が決裂。その後、関係断絶に至ったが、不破氏が98年7月に訪中、江沢民総書記(同)と首脳会談を行い、関係を正常化した。

 ▽安倍晋三首相「参議院議員を2期務められました。故人のご冥福をお祈りいたします。ご家族に対し、お悔やみを申し上げます」(遊説先の大分県内で記者団に)

 ▽中曽根康弘元首相「戦争が終わってから、いろいろな困難や妨害にも遭遇しながら共産党の骨組みを作り、力を伸ばしていった。国会では野党として自民党内閣に一番厳しい態度を取ってこられた。考え方、政策は違うが、信念を貫いて堂々とおやりになる姿を見て敬意を表していた。私が首相になって間もなく国会で質問を受けたが、かなりよく準備された質問で論理的に攻めてきた。敵ながらあっぱれだと感じていた」(記者団に)

 ▽小沢一郎民主党代表「98歳というご高齢だから、その意味では天寿を全うされた。戦前、戦後を通じて共産党の今日の基を築いた人だ。立場や考え方は全く違うがご冥福をお祈りしたい」(高松市内のホテルで記者団に)

 ▽浜田幸一・元自民党衆院議員「宮本なくして日本共産党なし。宮本ありて今日の共産党がある。(88年2月の衆院予算委で『殺人者である宮本顕治君』と発言し予算委員長を辞任したが)自民党の最大の役割は、日本を共産化しないことであり、闘いは私が死ぬまで続くと思っていた。好敵手を失った気持ちだ。冥福を祈りたい」(毎日新聞の取材に)

  ●宮本顕治共産党元議長の主な足跡

1908年 山口県で生まれる

 29年 雑誌「改造」の懸賞論文で、「『敗北』の文学」が第1席

 31年 東大経済学部卒。共産党入党

 32年 作家の中条(宮本)百合子さんと結婚

 33年 党中央委員に就任。治安維持法違反などで逮捕される

 45年 敗戦で約12年間の獄中生活を終える

 58年 党書記長に就任

 70年 党委員長に就任

 77年 参院議員(89年まで2期)

 82年 党議長に就任。委員長には不破哲三書記局長が昇格

 94年 一過性脳虚血発作で入院

 97年 第21回党大会で議長を退任、名誉議長に

 00年 第22回党大会で、他の幹部と横並びの名誉役員に

毎日新聞 2007年7月18日 20時40分 (最終更新時間 7月19日 10時41分)
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/fu/news/20070719k0000m010095000c.html

特に感慨はない。しかしながら、浜田幸一のコメントは〈愛〉がこもっている。因みに、浜田幸一は「宮本顕治」と宮沢賢治を間違えたのではなかったっけ。
ところで、2つのobituaryを読んで、改めて気づいたのだが、プライヴェートな事柄、例えば家族関係に関する言及が全然ない。宮本顕治の場合、略年譜で宮本百合子への言及があるのは、そちらの方も有名人ということで、プライヴェートな事柄を超えるだろう。英語圏の新聞のobituaryでは、少なくとも末尾にsurvived byというかたちで、遺族への言及があるのが普通だからだ。