宮内嘉久

清水有香*1「廃墟から目指した未来の街」『毎日新聞』2021年4月18日


京都工芸繊維大学美術工芸資料館で開催されている『編集者 宮内嘉久―建築ジャーナリズムの戦後と、廃墟からの想像力』*2について。


[宮内嘉久*3は]戦時下の1944年に東京大建築学科に入学。在学中に編集の仕事を始めるなどジャーナリズムの批評精神に新時代の建築を描く糸口を見いだす。「焦土」を戦後建築の出発点としたその目は一貫して、威圧的な超高層建築やコンクリートジャングルと化す都市を鋭く批判した。『新建築』の編集者を経て58年に独立。フリーの立場で「建築年鑑」の編集などに携わる一方、ミニコミの仕事に傾注していく。その始まりが70年から発行した個人誌『廃墟から』(79年まで)だった。
高度成長期を迎え、日本の景色が激変する時代でもあった。自ら建築時評やエッセーなどを執筆し、毎号100~130部を「読んでほしい人」に無料で送った。読者は主婦や画家ら建築関係者以外が6割を占めたという。一方で加藤周一鶴見俊輔ら思想家との交流も生まれた。加藤が宮内に宛てた書簡なども会場で紹介されている。

本展を企画した京都工芸繊維大大学院生(当時)の福井駿さんは「宮内の仕事を読み解く際、核心となるのが『廃墟』の思想」と説明する。宮内にとっての戦後の廃墟は「理想の街を自由に、いくらでも想像できる光景」だった。さらには高度経済成長という時流に逆らい、自身の社会的立場を捨てた先の未来を「『廃墟』として逆説的に表現したのでは」と考える。ミニコミという回路は、その実践の場でもあった。

2002年に『廃墟から』を再刊し、05年から『廃墟通信』として亡くなる直前まで出し続けた。その仕事は、廃墟という原点に何度も立ち返りながら自らの立ち位置を問い、たった一人でも声を届けるという編集者の信念を浮かび上がらせる。高みからは見えない未来像を、批評の地べたから照らし続けたのだ。(後略)
こちらの方は別ヴァージョン;


清水有香「原点に「廃墟」 戦後の建築ジャーナリズム開拓した宮内嘉久の軌跡」https://news.yahoo.co.jp/articles/5a180e438ca87aef9de72c3732e640653683fb13