古東哲明*1「沈黙の世界への旅」『書標』(ジュンク堂書店)530、pp.2-3、2023
著書『沈黙を生きる哲学』の「執筆の起点になった二つの沈黙体験」(p.2)。「青の時間」と「沈黙の銀河」。
次いで、「沈黙の銀河」を巡って。
(前略)初秋の頃なら夜明け前の五時前後。まだ明けやらぬ東方の空が深い群青色に染まる、静寂の一瞬があります。それまで庭先や野辺であんなに朗々と鳴いていた虫たちが一斉に鳴きやむ、それは瞬間です。夜闇のまにまに寄せては砕け、砕けては帰る波のように、絶えることなく一晩中鳴いていた虫たち。それがどうしたことでしょう。ケータイで緊密に連絡でもとりあっていたかのように、一斉に鳴きやむのです。
あたりには深い沈黙がひろがります。たんなる無音を超えた静寂。世界から完全に音が消えた心地。まるで大地の底がスーっと割れ宇宙の芯にまで届いたのではないか。そう思わせるほど深くて重たい、それは静寂です。そんな静寂の沈黙の時を、『昆虫記』で名高いファーブルは、「青の時間」と 名づけました。
それは何かが一斉に終わる時ですが同時に、何かが始まる時。虫のいのちがそこへ消え鎮まる消滅点をなしながら同時に、昼の生きものたち (蝉や小鳥や鹿)がそのいのちをめざめさせる時の開現です。夜と昼、闇と光とがサーッと一瞬で入れ替わるのです。
このとき、ほんの一瞬ですが、なにか天地自然の根源のようなものに触れた(触れられた)思いがします。音響がとだえたこの世のこの生の無音相の、さらに向こう側とでもいうのでしょうか。あるいは、「余白のさらなる余白」とでも言えるのでしょうか。つまりは森羅万象の背景をなす絶対虚空。荘子の「淵黙」。M・ピカートがいう「天地創造の背後にある空間」と重ね合わせることができるような深い沈黙が、一瞬、この地球を浸すわけです。(ibid.)
(前略)壮麗な銀河は現実には、そんな手の届かぬ天空彼方に浮遊しているではありません。夜空を見あげている者自身、すでにつねに銀河に編みこまれ、そのまっただ中に
いるからです。生まれてからずっとです(おそらく死んでも)。わざわざでかける必要はありません。すでに銀河到着済み。つまり「今ここ」が銀河の渦中。見ている自分だけなく、家屋も庭木も周囲のありとしあるすべてのものが、銀河生起の吐息をたてています。天空彼方にみえているのは、現実に生起し現に生きられている銀河の部分的波紋、可視的になったかすかな痕跡にすぎません。
そう思う時、遥か彼方に仰ぎみた銀河が一挙に、皮膚のすきまから全身へ吹きぬけていくような不思議な体感が起きてきませんか? 外界へ走ってものごとを「向こう側」に表象する。そうして表象された色彩ある可視的次元を現実だと思いこんで疑うことがない、それがぼくたちの思考習慣です。その習慣的眼差しがもはや内外の区別を絶し、主観(認識)と客観(対象)という区別を一段下った次元へ、屈折し変容し散開していかないでしょうか?
この一段下った静寂の次元が、「現に生きられている銀河」です。現に生きられている銀河を「実在銀河」と名づければ、実在銀河は夜空に浮かぶ可視的銀河(像銀河)をも上下に深く包みこんで、質的にまるで異なる巨大な不可視の静寂の次元に展開しているわけです。不可視のこの実在銀河を暗黙裡の土台(「於いて在る場所」)にしてはじめて、目前に展開する色形ある像銀河や星々や地上の光景体験が可能になる。(略)
音や色形あるモノゴトに、ついぼくたちの耳も眼も意識も気取られがちですが、そんなことができるためには、すでに自分の足元どころか全身全霊を、不可視の実在銀河に浸潤されていなければならぬという次第です。まさに内外打成一片(『無門関』)。
(略)今ここで触れる実在銀河を介し、ぼくらは深い静寂のなかで全世界・全宇宙に通底していることにもなりましょう(「尽十方界真実人体」)。
この不可視の実在銀河。それをぼくたちは、五感的経験とはまるで別の仕方でありありと《分かっている》でしょう? 色も形も重さも音も匂いもなにもかもないから、けっして五感的には経験できないのですが、空虚な概念ではないでしょう? むしろなにより間近でリアルでしょう、実在銀河は。五感とはまるでちがう仕方で、ものごとの実在(存在)をじかに生きて識るこの認知作用。これが本書のテーマ、「沈黙」です。(pp.2-3)