地上だった

「110年で目まぐるしい発展を遂げた押上駅」『京成らいん』738、p.8、2022


京成電鉄(開業時は京成電気鉄道)は、1912(大正元)年11月3日に、押上駅*1市川駅(現・江戸川駅)、曲金(現・京成高砂)駅*2柴又駅間で電車の営業を開始しました」。何故、押上を起点としたのか。浅草に近く、「東京市電(現・都電)への乗り入れを計画していたため」だという。


北十間川*3にかかる「京成橋」は京成電鉄が工事費を東京市に寄付し、東京市が設置した橋ですが、残念ながら[市電への]乗り入れは実現しませんでした。市電への乗り入れも叶わず、京成電鉄は何度も浅草への路線延伸の申請を行いましたが、認められませんでした。
戦後、高度成長期に地下鉄との相互直通運転が計画され、都営地下鉄1号線(現・浅草線)との直通運転が行われることになり、京成電鉄は悲願の都心乗り入れを果たします。今では相互直通運転は多数の路線で行われていますが、地下駅*4と郊外電車との直通運転は京成電鉄が日本初でした。
地下鉄との接続のため、開業時の駅とは別の位置に地下駅を新たに建設することとなったのですが、当時は2両編成が標準だったにもかかわらず、招来の輸送増を見込んで、8両編成対応のホーム2面4線を備えた駅となり、「東洋一の地下駅」と言われていました。(後略)
地上時代の押上駅は知らない。廃止された地上駅跡には京成電鉄本社ビルが建てられ、2013年まで本社として使用された。その後、京成電鉄本社は千葉県の京成八幡駅前に移転した。