誰が保証するのか

「後期クイーン的問題から『虚構推理』へ」https://anond.hatelabo.jp/20200309000539


これって、千葉雅也氏のちょっと前の


純文学がわからない、と言われるのは、部分的だが決定的に偶然性がキーになっているからだろう。すべてが偶然では成り立たないが、できるだけ因果性を立てようとするとエンタメになる。そこで、多すぎず、また逆にトリビアルでもないある程度の偶然性が重い意味を持つと、純文学になる。
というツィートと関係があることなのか*1

多重解決、ってのが流行ったことがあった。

ひとつの事件から複数の探偵が複数の真相を引き出す。

新たな証拠によって前の推理が否定され、新しい推理が発表される。

でもそれも次の証拠によって覆される。

そしたら真相ってのは何なんだ。どうしたらそれが真相とわかるのだ。

その本の中でたまたま最後に発表された推理が正解となるのか。

それだって次の証拠が出たら覆るかもしれないじゃないか。

一瞬「重層的決定」かと思ったけれど、アルチュセールとか関係ないか。ただ、これは別に奇異なことではなく、科学的論証というのはこういうものでしょ*2? 
ところで、推理小説において「推理」の妥当性を最終的に保証するのは誰なのか。多分、それは犯人だと思う。動かぬ証拠を突き付けられた犯人がそれを認める。或いは、抗弁しないことによって認める。さらに或いは、それは自暴自棄な態度を取ることによってかも知れない。推理小説なんて高級なものじゃなくて時代劇を考えてみればわかりやすいかも知れない。遠山の金さんが桜の彫り物を見せつけると、悪人は恐れ入り候! と平伏することによって、金さんの推理を承認する。或いは、葵の印籠を突き付けられた悪人が自棄になって水戸光圀に斬りかかり、助さんと格さんに返り討ちに遇うことで、光圀の推理の妥当性を承認する。推理小説の犯人の挙動もこれと似たようなものだろう。探偵が信用できなくてもほかに代わりは幾らでもいるけど、犯人は唯一無二の存在なのだ。犯人に対する信頼が失われたら、推理小説というジャンルは崩壊してしまうのではないか。

でもそんな作者と読者の戦いに巻き込まれる作中人物はたまったものではない。

ミステリは戦いである前に小説の一ジャンルだ。小説は作中人物が織りなすものであり、物語であるのだ。ドラマが作中で完結していなければならない。

読者は読者への挑戦を読めるかもしれないが、探偵は読めない。じゃあなんで探偵はそれが真相だと理解できた?

ここで探偵は「一人の人間」であるのか、それともただの「舞台装置」に過ぎないのかという話が出てくる。

初めのうちの探偵はだいたい舞台装置だったが、最近は探偵だってただの人間だというスタイルが増えている。

じゃあ何のために推理しているのか、推理とは何で探偵とは何なのか。そういう議論があった。

先ず、小説において、作家と登場人物との関係は直接的なものではないと思う。その間には語り手がいる筈。私小説のように、作者=語り手=主人公であっても、〈行為する私〉と〈行為する私を語る私〉と〈語る私によって語られた行為する私の行為をエクリチュールに仕立てる私〉との間には何らかのずれが組み込まれている。
「ここで探偵は「一人の人間」であるのか、それともただの「舞台装置」に過ぎないのかという話」って、それは近代小説の存立に関わる問題だろう。近代的な小説は伝統的な物語に出てくるのは人間ではなく諸々の観念が服を着て歩いているだけだと批判したわけだ。因みに、この意味では、プロレタリア文学というのは近代的な小説(純文学)よりも伝統的な物語に近いといえる。「探偵だってただの人間だというスタイルが増えている」というのは、推理小説が(良くも悪くも)純文学に接近したということ?
「虚構推理」というのも難解だ。そもそも小説って「虚構」じゃないか。ただし、それは作者や読者にとってだけど。登場人物たちは(ちょうど私たちが自ら生きる世界が「虚構」である可能性について判断停止しているように*3)自らが生きる世界が虚構であることを知らない(或いは忘れている)。登場人物たちがそういいうことを意識し始めると、小説は一気にメタ小説へと変貌してしまうだろう。また、小説のリアリティは読者にとってのリアリティではなく、舞台として設定された社会や時代、或いは構築されたキャラクターの属性にとってリアルかどうかということが重要だろう。南北朝時代の人間にとって、殺人は後醍醐天皇の怨霊の陰謀ということで解釈するのが最もリアルなことであるかも知れない*4
さて、そもそも「後期クイーン的問題」という言葉を初めて見たのだった。「推理小説」というジャンルの批評においては有名な言葉なのだろうか。ここでいう「クイーン」とはエラリー・クイーンのことだろうとは思うけれど、(私を含めて)「クイーン」から、フレディ・マーキュリーとかブライアン・メイとかを想起した人も多いのでは? 「クイーン」というバンドの「後期」とは何か? もしかしたら、日を改めて、この問題に言及するかも知れない。

*1:https://twitter.com/masayachiba/status/1227982072049885185 Cited in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/02/16/150918

*2:科学者と探偵の最も重要な差異は、科学者が一般的な法則の定立を目指すのに対して、探偵は専ら個別的な事件の真相解明を目指すということだろうか。

*3:こうした反現象学的ともいえるエポケーについては、アルフレート・シュッツの「多元的現実について」、またシュッツ著作集第1巻のモーリス・ネイタンソンの序文を参照されたい。

Collected Papers I. The Problem of Social Reality (Phaenomenologica)

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  • 作者:Schutz, A.
  • 発売日: 2008/05/27
  • メディア: ペーパーバック

*4:See 松尾剛次太平記 鎮魂と救済の史書

太平記―鎮魂と救済の史書 (中公新書)

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